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撮影報告 その91 若狭湾の反原発運動 彦根から三方へ

 

2011年12月28日。

ゆっくり起床。

天気は晴れ。

荷物をまとめて車につみ込む。

そして奥田さんと少し早いお昼ご飯を食べに彦根城の近くの「たねや」へ行く。

麦飯とじねんじょのとろろ、近江牛の肉じゃがなどのセットをごちそうになる。

今回もまた奥田さんには大変お世話になった。

そして私は彦根を後にして福井県三方の増井貴美子さんのお宅を目指して車を走らせた。

福井県三方・上野の集落。

三十三間山のふもとの40軒ほどの集落に増井さんのお宅はあった。

母屋を通って、裏の家へ通された。

木と珪藻土の壁。薪ストーブが燃えていた。

とても素敵な家だった。お茶を飲みながらひとしきり話をした。

後ろの山が三十三間山。

会議に参加するため、早めの晩御飯を食べた。

おでん、ご飯、味噌汁。

薪ストーブ。

18:00。大飯原発3、4号機稼働を阻止するための若狭の会議に参加するため、美浜の石井さんにピックアップしてもらい、小浜へ向かった。

12月14日、敦賀の杉原厚子さんに勧められ、私はこの第一回目の会議に参加した。

その時に増井さんと出会った。

そして第2回目の会議の今晩、私は増井さんの家に泊まらせてもらうことになり、いっしょに会議に参加することになったのだった。

 

大飯原発の再稼働を阻止するために、大飯町と小浜にチラシを配ろうということになり、そのたたき台を、若い世代の京都の平井さんがつくってくることになっていた。

若い世代の人は、原発反対、危険性のアピールだけでは人に伝わらないから、どういう未来に暮らしたのかを柔らかい言葉でアピールしていくほうがいいのではと主張していた。

若狭でずっと反対運動をしていた哲演さん、松下さんたちも若い人の感性を活かしてチラシをつくってみようという考えだった。

たたき台のチラシが配られた。

それを見て各人思ったことをみんなに言った。

私も言いたいことがあった。

誰も言わなかったら言おうと思っていたが、増井さんが私の思っていたこととほぼ同じことを言っていたので私は発言しなかった。

増井さんも同じようなことを思ったのかと少し嬉しくなった。

一気に親しみがわいた。

このチラシは未来のこととも大事だが、今、大飯原発の3,4号機を稼働させようという動きを阻止しなくてはいけないという緊急性もある。そして3.11後、福島第一原発の事故を目の当たりにし、15機も原発が密集する若狭湾周辺で暮らす自分たちが、これからどう暮らしていきたいのかということを問いかけることから始めた方がいいのではないか。と。

会議のもう一つの議題は、原発を止めた後の政策提案。美浜町の松下さんは、原発を止めた後の美浜町がその後もやっていけるように、雇用などの問題を具体的に提案をしようとしている。

これは、環境エネルギー研究所へ美浜町の政策提案を依頼している。

来年5月中に町に提出予定のところまでこぎつけている。

美浜町は、木材など豊富な自然の資源がある。

これを活用して地域で企業して雇用を生み出し循環していけるようにと考えている。

今ある美浜原発の核のゴミは美浜町で乾式の貯蔵という形で引き取るという苦渋の決断をして、その上で、自分たちで自立していこうと。

そしてこの試みを皮切りに、若狭湾の原発立地町もそれぞれ政策提案をして原発を止めて暮らしていける町になっていったらと考えている。

とても具体的で現実的な提案だった。

松下さんがこれまで長い間反原発運動をしてきた中での答えがこれなのだと思った。

22:00会議は終わった。そして、また石井さんの車にのせてもらう。

道中、チラシのたたき台のことで3人でひとしきり話した。

 

そして増井さんの家に帰宅。

お風呂に入り、ビールを飲みながら薪ストーブの前でおしゃべり。

音楽のこと、原発のこと、政治のこと、哲学のこと、子供の頃のことなど、色んな話をした。

増井さんは思ったことを率直に言う気持ちのいい人だ。

話していてとても面白かった。

そして増井さんは亡くなった夫の邦明さんの話をはじめた。

気が付いたら夜中の3時だった。

そして温かい布団でぐっすり眠った。

静かな夜だった。

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