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スタッフ紹介

「空想の森の財産」
録音・編集 岸本祐典

「空想の森」が完成して、約二ヶ月が経ち、
ようやくスタッフとして関わった6年間を振り返る事ができるようになった。
専門学校を卒業した2002年に録音部スタッフとして初めて新得を訪れた。

学生時代ドキュメンタリー映画の面白さ、奥深さを記してある本を読んでいた僕にとって、
ドキュメンタリー映画は憧れの存在だったので
大いに理想を持って現場にのぞんだ。

だがいざ撮影が始まると、思い描いていた光景とは違い、
魅力ある被写体の方々がカメラが回りだすと、
それまでとは違う雰囲気が流れ始める。

撮影してる自分達の自信のなさを撮っているような気分だった。
当然あがってきたラッシュは、(その頃はフィルムで撮影していたので見るのは数日後だった)
自分が撮影の時感じていた「ズレ」が写っていた。

ラッシュを見た後、スタッフ間で打開策を計ろうと、何時間も話し合った。
だけどどんな事を話し合っていたのか。
今となってはあまり覚えていない。

僕はただ自分の中にある理想を話してただけだったのだろう。
「空想の森」に対しての目標がものすごく曖昧だった。

そうこうしているうちにフィルムでの撮影は中断し、
様々な理由が重なって二年間撮影はできなかった。

その間、田代さんとは電話で現状を話したり、時折会ったりなどはしていた。
僕はテレビや別の映画の仕事などをしていたが、
撮影できなかった田代さんは辛かったと思う。
何とか励ましてあげたかったが、うまく言葉が見つからなかった。

ただ全く絶望的な状況かといえば、そうでもなく、
完成させる手がかりはあったし、
何度か素晴らしい瞬間にも出会った。

最初はよくわからなかった「空想の森」の世界がすこしずつ理解できる様になった。
そういう前向きな気持ちがある以上、辞めるつもりはなかった。

そして2005年からビデオに撮影を切り替えて、撮影が再開した。
それまでの過程がウソのように撮影は順調に進んでいった。

これは、田代さんが撮れなかった時期に被写体の方々との交流が生んだ結果だ。
以前にはなかったパワー(勿論ビデオになって長時間撮れたというのも大きい)が
撮影現場に生まれていた。

全ての撮影には参加できなかったが、とにかく楽しかったし、刺激的な一年だった。

2007年夏頃から何回か編集作業に参加した。
編集はあまりやった事がなく、戸惑ったり失敗した事もあったが不安にはならなかった。

被写体の方々との過ごした時間や、
完成に向け協力してくれた人々、素晴らしい瞬間を収めたラッシュ、
学生時代に読んでいたドキュメンタリー映画の本には載っていなかった、
「空想の森」なりの財産が完成の最後の瞬間まで自分達の原動力だった。

「空想の森映画祭」シーンのラストカット。
カメラは祭りが終わった新内ホールの廊下へと向かう。

木造の廊下に自分達の足音が響く。
数あるカットの中でこのカットが一番好きだ。

それは多分自分達はこういう風にしてこの映画を完成させたと思うからだ。

一歩一歩自分達の足音が聞こえる様に、
決して器用な動き方じゃないけど納得するやり方で粘り強く続ける事。

そういう風にして一つの物事を成し遂げた事に僕は少し誇りをもっている。

宮下家、山田家、新得バンド、共働学舍のみなさん、
撮影やそれ以外にも協力して頂いた方々、
久保田さん、藤本さん、一やん(一坪君)本当にありがとうございました。

そして田代さんお疲れ様でした。
あなたと一緒に映画が作れて楽しかったです。

最後に「空想の森」を通じて出会えた観客の皆さんに感謝の気持ちを込めて。

 

 

「全ては夢みることから始まった」のだ
プロデューサー 藤本幸久

1996年、第1回SHINTOKU空想の森映画祭に掲げたテーマが、
「全ては夢みることから始まった」だった。

なにしろ、何もなかったのだ。
映画祭を始めようというのに、映画館はない。
廃校になっていた新内小学校を会場に使うのだが、昼間上映するのに、暗幕すらない。
幼稚園の生徒が昼寝に使う暗幕を借りた。

何もなかったが、楽しかった。みんなといっしょに、映画をたくさん観た。
上映の後、車座になって語りあった。
夜のコンサートでは、踊りに踊った。
何もなかったが、ほんとうに楽しかった。

僕はその前の年に、東京から新得に移って来た。
自分自身の第1回監督作品「教えられなかった戦争―侵略・マレー半島」の上映で、
新得の人たちと出会って、ここで映画を作りたいと移ってきたのだ。
共に働学舎の宮嶋望さんや新内で農業を始めた人びとをドキュメンタリー映画にしたいと思っていた。

東京にいる時には、戦争や水俣病、環境破壊をテーマに映画を作ってきた。
新得の人たちと出会って、「戦争しない、侵略しない、環境破壊しない人間の暮らし」を描きたいと思ったのだ。
新得の風土をまるごと舞台にした映画づくりを夢みていた。

同時に、この新得での映画づくりには時間がかかる。
一生ものかもしれないと、予感していた。
映画は一人では作れない。
スタッフを育て、仲間を増やして、新得をまるごと撮影所にしようと、映画祭を始めたのだった。
そしてその時に、田代陽子がやってきて、長い物語が始まった。

それから12年、僕の想いは、田代陽子の手で映画となった。
東京から新得に移ってほんとうによかったという思いがあふれてくる。
田代さん、ありがとう。

僕の方は、戦争を描くドキュメンタリーから、まだまだ離れられそうにない。
今は、戦争に送られるアメリカの若者たちを撮影している。
この若者たちが、田代監督が描いた新得の人びとのように生きられたらどんなに幸せだろうと想いながら、
戦争をする若者たちを見つめている。

 

 


「生きるということ」
撮影 一坪悠介

青い天空、流れる白雲、輝く陽、爽やかな緑、広大な大地、
木々を抱えた偉大な山々、薫る土、透き通った水、
押し寄せる風、巡る季節、生まれる命、つくるということ、
育てるということ、働くということ、生きるということ、
そしてその素晴らしさ。

決して楽ではない、迷いがない訳ではない、
ただできるかぎり己に正直であろうとするまっすぐな人々がそこにいる。
目をつむれば浮かび上がる木漏れ日のような彼らの笑顔、
どこかで鳴りつづけている微笑みのような彼らの演奏。
いつまでも木霊して僕の脳裏に焼き付いている。

 

 


「21世紀の究極の生き方」
整音 久保田幸雄

都会での仕事を捨て、北海道での安全な野菜作りに、
生き甲斐を見い出している人たちがいる。
これは私にとって大きな驚きだった。

この映画に登場する山田さん夫妻、宮下さん夫妻だが、
食糧自給率が4割を割り込んだこの日本で、
その逞しい生き方は、新鮮で魅力的である。

21世紀における究極の生き方ではないかとさえ思う。
このグループからいただいた南瓜が滋味にとみ、
極めて甘かったことが忘れられない。

 

 


「魔力」
字幕翻訳 山之内悦子

昔、映画祭に行った。

札幌から「がら空き」の列車に乗って
熊笹と蕗が縁取る森を何時間も眺めていたら着いた。

青大将がうねって行くテントの中や廃校になった小学校のスクリーンに
見ごたえのある映画が写っていた。

周りのテーブルには美味しい食べ物や酒が並び、
人々は話し、踊り、歌っていた。

人生捨てたものではない、と思わせる力がその場には確実にあった。
その映画祭が種となって生まれたその映画祭と同じ魔力を持つ映画がこの作品である。