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撮影報告 その83 番外編 太田さんから聞いた話 メモ

太田さんから聞いたお話色々。

北前船、北国船で、敦賀の港からから東北、北海道へモノが行き来していた。

敦賀は商人の町だった。

江戸の初期、年間50万表の米が敦賀に入った。

ここから、大阪、京都へと米が流れていった。

敦賀は少し前まで人口3万人だった。

400年もの間ずっと3万人の町だった。

そしてこの町には神輿が30もある。

この規模の町で神輿が30というのは非常に多いそうだ。

 

戦国時代、この辺りには千人以上も大名がいた。

その米は敦賀からみんな流れていったので、だまっていても売れたので、商人の愛想が悪い。

それは今も同じだそうだ。

お花見はどういうところから始まったか。

昔中国で梅を鑑賞していた。

中国の人は梅の花の中に神がいると考えた。

そこで秋の実りをお願いすることを始めた。

そのためにお供えをした。

それを食べたことからお花見が始まったそうだ。

 

福井県の県鳥・ツグミは昭和30年第頃まで、毎年冬になるとシベリアからやってきた。

敦賀は空が真っ黒になるくらい大群できていた。

今は一匹もこなくなった。

戦時中、敦賀に「兵隊ばーさん」と呼ばれるおばあさんがいた。

孫を連れていて、町で人々に大きな声でに号令をかけていた。

 

日本は唯一、他国に侵略されていない国。

だから独立記念日がない。

自分の文化を守る必要がなかったから、平気で自国の文化を壊すことができたのではと太田さんは考えている。

 

ポーランドの戦後復興は、昔の地図を広げて、ここはあーだったこうだったとけんけんがくがくやって、昔の通り建て直そうとした。

かたや日本は焼け野原になった町を昔のようにとはこだわらず、まったく新しくそしてどこも同じようなものにした。

 

濃美と近江のお茶が敦賀に集まってきた。

それを北国船で東北へ運んでいった。

東北には鉱山がたくさんあり、鉱山労働者たちの毒消しにお茶は使われていたそうだ。

 

敦賀では番茶は緑色。福井は金持ちだから。

 

日本で一番いい気な荘園は東大寺の荘園だった。

豊臣秀吉が荘園禁止令を出すまでその荘園が敦賀にあった。

寺が敦賀から莫大な税金を取っていた。

この時代から鶴賀の植民地がはじまった。

だから「原発は千年の怨念」だと太田さんは言う。

 

日本最古の港・敦賀と中国北部の渤海とで交易があった。

そして越前若狭に倭人が上陸した。

それから倭人の侵略が始まった。

その当時アイヌが住んでいて、アイヌを追っ払った。

アイヌは北と南に追いやられた。

 

坂上田村麻呂は東北征伐をした。

銅山が欲しかったからだった。

その銅山の銅で奈良の大仏が建立された。

坂上田村麻呂は北征伐の際、東北の生き残った人たちを助けてほしいと朝廷に願い出たが、聞き入れられなかった。

それで供養のために作ったのが小浜の明道寺。

今この寺の住職は、反原発運動を長年している中島哲演さんだ。

 

倭国は100くらいの国が乱立。倭の五王がいた。

その中の一人が日本に渡り、応神天皇になったという説がある。

4世紀のことだ。応神天皇は15代目の天皇ということになっている。

1代から14代の天皇は本当はいないのではないかという説もある。

 

奈良朝廷時代、敦賀は防衛上とても大事な場所だった。

越前海岸を重視した。

朝廷は塩浜を作った。

塩を作りながら海を監視が出来るから。

敦賀には天皇の親戚が住んでいたので、塩づくりをその人たちがした。

朝廷では敦賀の塩しか使わなかった。

親戚がつくっているので毒を盛られる危険がなかったから。

それで塩津から大津まで塩街道ができた。

大津から都へと塩は運ばれていった。

 

敦賀には「言うな地蔵」というものがいたるところにある。

この辺りのことをペラペラしゃべるなということ。

天皇家の親戚が多くすんでいるので、それにまつわるうわさなどをされないようにしたものと思われる。

敦賀には東洋紡という企業がある。

ここでは定年間際に原発に出向させられ、線量の高いところで働かされるそうだ。

敦賀の歴史を研究した鶴田利忠さんもその一人だった。

 

敦賀半島に「色が浜」というところがある。

芭蕉もこの地にやってきた。奥の細道では、「色」を「種」と記している。

鶴田さんの調べたところによると、昔、防衛上重要視されていた敦賀に、種子島から防人(さきもり)が防衛のために敦賀にやってきた。

種子島の人は防人に向いていた。

体が小さいので船にたくさん乗れるし、小回りもきく、操船の技術もある。

それで、種子島の人が色が浜にたくいさんいて、芭蕉は色を種と記したのではないかと。

しかし現在、色が浜に種子島の子孫は残っていない。

「田子」の人も種子島の子孫で今でもみんな小さい。

種子島の風習が残っている。

お墓を作らない。

骨は本山に預けていて、いづれは種子島に帰ろうという思いがある。

明治の時、徴兵検査に通らなかった。

小さくて。

それで少しでも大きくなりたくてなぜかテニスをする人が多くなったそうだ。

 

 

敦賀と滋賀県の県境に「愛発」(アラチ)という地名がある。

これはアイヌ語。「愛」は後に心を残すという意味。

「割愛」という言葉も、後に心を残してやめますという意味だ。

「癶」は足並みをそろえるという意味。

「弓」は出発の儀式で使われた。

つまり愛発は倭人が敦賀を征服した後、敦賀に心を残して近江に出発しますという意味でつけられた。

 

敦賀の地名

「上根来」(かみねごり)山の尾根から少し下がったところ。ほどよいところ。という意味。

「朽木」(くつき)山の方という意味。

 

猫は平安時代、仏教伝来と一緒にきた。

お経を守るために船の中のネズミ捕りとして。

そして朝廷にとても大事にされた。

 

「笥飯」(けひ)が「気比」になった。

食べ物が豊かなところという意味。

敦賀は食糧の供給地だった。

 

 

敦賀には松原客館があった。

外国人の役人を半年間ほどそこでもてなし、その後都へと向かった。

これはもてなしの他、都に疫病が入らないようにという役割もあった。

 

 

藤原為時は紫式部の父。府中(今の武生)の役人だった。

敦賀に1年ほど住んでいて、その時紫式部もいっしょにいた。

敦賀に宗の船が入ったと聞いて宗の人に会いたいと紫式部が敦賀に来た。

そのことが河野村の村史に記述されている。

 

北前船の右近家は活躍した。右近家は財をなし、明治時代には長者番付に載った。

日露戦争では軍艦を国に寄付した。

今は海上保険の会社になった。右近家の自宅は町に寄付して資料館となっている。

右近家の寄付した船で、福井丸という船がある。日露戦争の時、ロシアの船を封鎖するために、旅順湖の入り口に沈められた。

その時逃げ遅れた広瀬中佐と杉野という軍人が軍神となり、そのことが歌にもなった。

太田さんもてまりしながら歌をうたったという。

この福井丸の決死隊に12人の人を募集したら、2000人も応募がきたそうだ。

 

 

瀬戸内海に「大下島」(ダイゲトウ)という周囲2キロの島がある。

この島は村上水軍(海賊)の子孫が住んでいる。

宝物がかくしてある島と言われ、太田さんは桃太郎の話はここからきたのではと考えている。

毛利は村上水軍にずいぶん助けられた。

伊代には河野水軍の末裔がいる。

秀吉が水軍禁止令をだし、水軍が全国にちらばっていった。

その河野水軍のだれかが、南越前の河野にきたのではないかと。

 

塩津から大津の間、堅田に水軍がいた。通行料をとっていた。

 

「ブルーノタウト」ユダヤ人で建築家。

アメリカに亡命する途中敦賀に来た。

その時、世界で最も美しい港は敦賀と記している。

 

鉄は山陰から来て敦賀に上がって長浜にいった。

物流を支配していたのが近江商人。

戦国大名と結びついて力をつけていった。

国友 鉄砲資料館。

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