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監督の文章色々

  • 撮影を終え、編集中の今思うこと 〜映画は希望を描きたい〜

何を撮りたいのか、どうして撮りたいのか。

このことをいつも自分に問いながらこの映画をつくってきた。

戦争、差別、公害、障害者などの社会問題をテーマにしたものでもなく、自分探しがテーマでもなく、

とびきり姿が美しい人や特異なことをしている人、特殊な才能を持った人が出てくるわけでもなく、

ただ、私の身近な私にとって愛すべき人たち、事柄を撮ってきた。

このことが今の私の撮るべきことだとなぜか信じて疑わなかった。

しかし、これが映画になるのか。

テーマを一言で言えるような映画でなければいけないのではないか。

たくさんの人たちに見てもらうに足る映画になるのか。

このことは常に私の頭の中にあった。

ビデオに切り替えて撮影した一年間は、気持ちを奮い立たせなければいられない毎日だった。

そんな中でも、撮影の時は心地よい緊張感とワクワクした気持ちでしんどさを忘れた。

撮影の度に私は被写体の人たちから元気をもらっていた。

キャメラ越しの被写体の人たちの仕事や暮らしに引き込まれ、思う存分撮らせてもらった。

広い世界の中でこの人たちと出会えた縁を思った。

そして録音部の岸本君、撮影部の一坪君が撮影を重ねる度に映画「空想の森」に、被写体の人たちに思いを深くしていったことが私は大変嬉しくあり、それが私の大きな支えでもあった。

この映画を世に産み出したいと思っているのは私だけではないんだと。

16ミリフィルムで撮影をしていた頃や製作資金がなくなり、スタッフもいなくなり撮影ができなかった時期、

私はいつも、「ああ、なんで自分の思ったように撮れないのだろう。

今しか撮れない瞬間を次々と撮り逃してばかりいる。」と滅入った気持ちに陥っていた。

握っても握っても、握った砂がザーと指の間からこぼれ落ちていくようだった。

トンネルの出口はいったいあるのだろうかと。

2004年の年末、私は16ミリフィルムでの撮影を諦めた。

こうなったらビデオで自分で撮ろうと。

機械が苦手なので自信はなかったが、そんなことを言っていられなかった。

2005年は一年間撮影にかけようと心に決めていた。

冬、ビデオに切り替えて初めての撮影の時、私だけの撮影を不安に思っていた録音の岸本君が、撮影志望の若者を一人連れて来た。

それが一坪君だった。

その時正直言って、私は後が無い切羽詰まった気持ちでいたし、どんな人かわからない人と関係を一から築いていくことに億劫でもあり、新しい人に大事な撮影を任せられないと思っていた。

岸本君との信頼関係も一朝一夕でできたものではなかったから。

ぶつかり合い、色んなことを共有してきた上に成り立ったものだ。

そのようなことを、初めて会った日に一坪君に言ったと思う。

それでも彼はやってみたいと私に言った。そして一坪君はこう言った。

この映画は人が見るのと同じように見える50ミリで撮っていくのがいいと思う。

近くで見たければ自分の足で近づいて、遠くで見たければ離れて撮ればいいと。

私も同感だった。

この事は最後まで私の撮影の基本となった。

そして春から夏になる頃、本格的な撮影に突入していった。

アルバイトや学校の合間をぬって2ヵ月に一回くらいの割合でロケをした。
間もなく私の心配は杞憂だったとわかった。

宿舎の小川のじいちゃんの家での共同生活をしながらの撮影など慣れないことも多かっただろうが、一坪君はものすごい早さで順応していった。

岸本君も慣れない彼をよく助けていたと思う。

料理も楽しそうにつくっていた。被写体の人たちとも無理なく自然に溶け込んでいった。

私たちは三人で同じ屋根の下で共同生活をしながら、結構面白く充実したロケをするようになっていった。

そして一坪君が撮った方がよいと判断したものは彼にお願いした。

撮るものが私と似ているところも結構あった。

もちろん彼独特のものも多いけど、ラッシュを見返していると一坪君の撮影したところで、自分で撮ったとこだっけと思うところが結構あったりする。

2005年6月の空想の森映画祭は撮影を二人に任せて、私は被写体になった。

今まで3回程映画祭を撮影しているが、どれも映画祭は撮れていなかった。

映画祭の撮影が難しいのは重々知っていた。

だが、岸本君と一坪君は彼らが感じていた映画祭を映し撮った

。私がずっと撮りたかったものがそこにはあった。

彼らにしか撮れなかったものだと私は思う。

岸本君と一坪君に刺激を受けたり、技術的なことを教えてもらったりしながら私は一人撮影を続けた。

技術も経験もない私はとにかく必死だった。

キャメラを持つ自分の目の前の被写体の人たちや、起こっている目の前のことに向き合い、その場の空気を映し撮ることに集中していると、自然とキャメラと私もその場の一つの存在になっている。

そういう時、思いもかけなかったシーンが撮れたりするようになった。

その嬉しさは言葉では表せない。

今まで何で撮れないんだろうと思っていたことが撮れるようになってきた。

自分の撮影にも少しずつ手ごたえを感じてきた。

「映画は希望を描くものだ。」とプロデューサーの藤本さんは言う。

私もそう思う。

映画は希望を描きたい。

見てくれるお客さんと、キャメラの前に立ってくれた被写体の人たちと、いっしょにこの映画をつくってきたスタッフたちと、そしてこの映画を支え応援してくれた人たちと、今この時代を生きている喜びや面白さをいっしょに味わいたいと思う。

今まで撮ったラッシュを見ながら、私は希望を感じていたからこの映画を撮り続けてきたのだと思った。

希望とは、大げさなものではなく、「また明日ね。」と思える気持ちや「この人と出会えてよかった。」

と思う気持ち、未来に向かって思いを馳せることができる気持ちだと思うようになった。

今現在の自分の気持ちが1秒1秒積み重なっていって、未来に続いていくと思う。

それが希望というものじゃないかと思う。

気持ちは日々揺れ動く。

ぶつかるし、落ち込むし。だから道のりは平坦ではない。

そして今の気持ちの先にある希望は空、大地、海、そして人の心へとつながっていくのではないかとも私は思う。

監督・撮影:田代陽子

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 『空想の森』が完成して思うこと

映画は奥深い。

探究してもしても、その先がある。

何を言いたいのか、何を表現したかったのか。

ずっとそれを自分の中で探し続けている。

映画が完成した今も、それは一言では言えない。

2008年3月17日『空想の森』は完成した。

その5日後、地元・新得でお披露目上映をして初めて人に見てもらった。

500人が定員の町の大ホールが、ほぼ満席になった。それには本当に驚いた。

そして上映中はさながら『ニューシネマパラダイス』のようだった。

笑い声とおしゃべりの絶えないにぎやかな上映会だった。

こんな素晴らしい上映はめったにあるもんじゃないと興奮しながらも、私は初めての上映で、まだ本当にこれでよかったのかと確認しながら見ていたのだが、会場の雰囲気に押されて私もお客さんといっしょに楽しく最後まで映画を見た。

この日私は、映画の力を確かに感じた

。自分が今、生きて立っていることを感じ、感謝の気持ちでいっぱいになった。

人のつながりの中で映画は生まれた。

全くもって奇跡的なことだ。でも同時に必然でもあると思う。

人を育んだ地球の46億年の歴史の中、多くの要素がからみ合った果てに、『空想の森』は生まれたのだ。

沢山の要素の一部にすぎない生まれたばかりの映画だけど、だからこそ限り無く愛おしい。

そうして生まれた一本の映画。

今までこの映画に関わってくれた全ての人たちと共に、これから私は『空想の森』とゆっくり広い世界を歩いていきたい。

そして、きっと色んな人や物事にめぐり会うだろう。

話をしたり、美味しいものを食べたり、喜びを分かち合ったり。

そうしてまた、映画の奥深さを思い知らされることだろう。

そして私は考え続けるのです。

私の生きている今を。映画を通じて人や世界と関わっていきながら。

出演者の皆さん、応援団の皆さん、スタッフの皆さん、長い間おつき合いしていただき、心より感謝しています。ありがとうございました。

そしてこれからもおつき合いください。

みなさんと出会えたこと、そして映画をいっしょにつくってきたことは、私の誇りであり、財産です。

監督 田代陽子

 

 

 

 

  • 『すったもんだの記録』

2000年から撮影のための準備を少しずつ始め、2002年春から16ミリフィルムでの本格的な撮影を開始した。

キャメラは借りたエクレール

。監督の私は、1996年までは映画とは無縁だった。

この年に北海道の「新得空想の森映画祭」で、初めてドキュメンタリー映画をスクリーンで観た。

これがきっかけとなり、2本のドキュメンタリー映画のスタッフとして映画づくりに携わることになった

。観る方はと言えば、1997年から山形国際ドキュメンタリー映画祭にかかさず参加するようになり、映画の多様性・奥深さに魅了されていった。

そんな私が映画を撮ることになった。現場のスタッフも経験の浅い人ばかりだった。

この時何も知らない私は、何の疑いも無く映画を撮る気でいた。

できると思っていた。

私には確かに撮りたいものがあり、表したい感覚があった。

しかしそれは、いつも言葉ではうまく言えなかった。

そこから何かが始まっていくのではないかと、ぼんやりと私は思っていた。

知らないというのは恐いもので、ここから十年、映画と格闘することになるなんて、その時の私は夢にも思っていなかった。

始めの頃、私は被写体の人たちに撮影することを認めてもらうのに必死だった。

被写体の人たちは口々にこう言った。

「自分たちの暮らしや仕事を撮って何が面白いの?誰が見るの?映画にならないでしょ。」

それでも、いっしょに働いたり、ご飯を食べたりしながら、折々に映画を撮りたいという話をした。

今でもうまく言葉で説明できないのに、この時点で私は一体何を彼らに話していたのだろうか。

が、そのうち「なんだかよくはわからないけど、撮ってもいいよ。」と言われるようになった。

しかし、フィルムでの撮影時代は何をやってもうまくいかなかった。

確かにフィルムにはなにがしか映ってはいたが、ちっとも撮れていなかった。

ラッシュを見る度にガックリし、なんとか打開せねばとスタッフと話し合いを重ねた。

しかしキャメラマンと、撮影に対する考え方の溝が深まる一方だった。

自分の撮りたいものは撮れず、いい場面を撮り損ねた後悔の念ばかりがいつも私の心を占めていた。

そうこうしているうちに、資金も行き詰まり、録音部の岸本君以外のスタッフは辞めていった。

この後2年間、全く撮影ができなかった。出口のないトンネルの中にいるような心境だった。

2004年冬、私はどんなことがあっても、絶対に映画を完成させると心に決めた。

そしてフィルムでの撮影をあきらめ、私がビデオで撮影することを選んだ。

 

2005年、中古のビデオキャメラを買い、録音の岸本君と二人で撮影を再開することになった。

この間、被写体の人たちの状況も変化していた。

私の撮影を不安に思っていた岸本君が、大学を卒業したばかりの撮影志望の一坪君を連れてきた。

私はこの一年で撮りきろうと決めていたので、新しい人と一から関係をつくっていくことに億劫な気持ちだったが、とにかく一度ロケをいっしょにやってみることになった。

 

春まだ遠い3月、水の出ない宿舎の中。

ストーブを囲みながら、私、岸本君、一坪君が顔を合わせた。

私はどんな映画をつくりたいのかを話したと思うが、この時具体的にイメージが決まっていたのはラストシーンだけだった。

それを聞いた一坪君は「それは面白いですわ。この映画、いっしょにやりたいです。」と私に言った。

何回かのロケを経て、彼は自然に被写体の人たちとこの土地に馴染んでいった。

この映画の撮影の基本的なスタンスは彼が提案した。人の目と同じサイズで撮る、ズームは使わない。よく見たい時は近づく、広く見たい時は離れる。この意見には私も大賛成した。

この映画にぴったりだと。そして私は彼が撮った方がいいと判断したシーンは安心してキャメラをまかせるようになった。

撮影部、録音部それぞれのスタッフが、被写体の人たちと関係をしっかり築きはじめると、三人の持ち味が活かされた手ごたえのある撮影になっていった。

私には撮影技術はないので、何をどう撮るか、試行錯誤の撮影だった。

必ず事前に被写体の人に話しに行き、この日にこれを撮らせてもらいたいとお願いをした。

ただ、農業は天候や仕事の進み具合によっては、狙っていたことが撮れないことも多い。

それはそれでよかった。

どうしても撮りたいものもあったが(宮下さんの蕎麦落としなど)農作業自体にそれ程こだわって撮らなかった。

それよりも、どんな風に人といっしょに働いているのか、どんな風に土の上で仕事しているのか、どんなものをどんな風に食べているのかの方が私には魅力があった。

撮影の基本として、キャメラを持つ私がいることを隠さず存在させて、私もその場を被写体の人と共有して、映像にすくい撮ることを心掛けた。撮影をしている私に、被写体の人たちは普段おしゃべりするように話しかけてきた。

私もいつも通りに答えた。それでいいと思った。

そういう関係を時間をかけてつくったからこそ、撮らせてもらえたのだから。

私はロケの度に、被写体の人たちを宿舎に招き、一品持ち寄りの食事会を開いた。

被写体の人たちにも、よく食事に招かれた。

被写体の人たちは美味しい野菜やチーズをつくっているので、料理もおいしい。

私たちは食事会の度に、その時撮ったラッシュを被写体の人に見せた。それはとても重要なことだった。

私たちが何をどう映し撮っているのかが被写体の人たちに伝えられる。

私たちを理解してもらえることでもあり、いっしょに映画をつくっている意識が芽生えることにもなった。

ああでもないこうでもないと美味しくて楽しくて本当によく食事を共にした。

スタッフと被写体の人たちとの交流が深まったことで映画音楽が生まれた。

これは思ってもみなかったことだった。

後に岸本君が私にこう言った。

「その人の作った料理を食べる事が、その人を一番よく知ることができる。」と。私もそう思う。

被写体の人たちからロケの度に野菜を分けてもらい、お金はなかったけれど豊かな食生活だった。

短い間だったけれど、私たちは宿舎での共同生活を大事にしながら映画と向き合った。

約100時間あるラッシュの中で、ある10秒程のカットがまるで永遠に続く時間のように感じる時もあれば、1つのシークエンスを何時間も撮影しても結局は使えなかったり、冬の寒さに耐えながら撮った風景よりも、何気なく撮った風景の方がその時の自分の気持ちがストレートに出ていたり、編集であれこれカットを入れ替えても、突然思いがけないカットが入り込んできて映画の中核を担う様になったりする。

ドキュメンタリーの作業とは全く不思議なものだ。

この映画の撮影・編集作業は、物語を作っていくのと同時に、この不思議な感覚を自分なりに解き明かしていく作業でもあった。

映画が完成してもこの不思議な感覚の答えがでたわけではないが、私はいつか自分なりの結論を見つけ出してやろうと思っている。

この映画は、そんな私たちのすったもんだを記録した映画でもあります。

監督:田代陽子