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撮影報告 撮影部:一坪悠介

昨年11月から12月にかけて、大間、函館で、一坪悠介キャメラマンと新しい映画で初めて一緒に撮影をしました。

その時の撮影報告を書いてくれたので、掲載します。

青森県・大間町・あさこはうすにて。 一坪悠介キャメラマン

 

「いま」を、そして「これから」をどう生きるのか・・・。

撮影部:一坪悠介

 

 

田代監督と一緒に映画作りをするのは今回が2本目になります。

1本目の「空想の森」が完成し、上映が始まってもう2、3年は過ぎたと思いますが、撮影していたのはさらに2年ほど前だったと思います。

まだ、僕はそのとき24歳でした。

ポレポレ東中野で「空想の森」を見たとき、このあと田代さんは何を撮るのだろうと思いました。

録音をやっていた岸本さんも同じことを考えていたようです。

ドキュメント映画は、「なぜ、今この映画なのか」ということが劇映画よりも製作するうえで大きなモチベーションになります。

自分が訴えたいこと、描きたいことが明確になければ、なかなか作れるものではありません。

正直なことを言えば、田代さんは「空想の森」を作り終えて、良い意味で監督としての資質を全て使い果たしてしまったのではないか、とも思っていました。

なぜなら、「空想の森」を見終わったときに、田代さんの映画はそのとき完結していたからです。

最近よくある中途半端な「空想の森2」みたいな映画は見たくないし、田代さんはそういう映画は作らないだろうと思っていたからです。
次回作を作るとしても、相当な充電期間が必要になるだろうと思いました。

あれから5年が過ぎ、僕は29歳になりました。
そして、吹雪く大間崎で迎えてくれた田代さんはあの時と同じように、つまずいてしまいそうになるほど前のめりな監督でした。

また一緒に映画を撮れることに大きな喜びを感じました。

 

大間、函館での二週間の撮影すべてはここでは書ききれませんが、田代さんの車で訪れた土地の全てで素晴らしい出会いがあり、新たな発見がありました。

ドキュメント映画の撮影の面白いところがまさにそれです。撮影をしなければ間違いなく知り合うことのなかった人々の人生に触れ、己の生き方や思考を見つめなおす機会を与えてくれます。

僕にとっての今回の映画の始まりは、やはり3月11日の震災と原発事故だと思います。

あの日、僕は別の映画の撮影で北九州に滞在していたため、ニュースで事の重大さを知りました。

帰京予定が2ヶ月後だったため、東京に残してきた妻のことがとても心配でした。

あの日を境に、漠然と色々なことを考えるようになりました。

妻のこと、家族のこと、友人のこと、地震のこと、原発のこと、この国の在り方、政治、教育、幸せ、生きる、守る、そして次の世代のこと等々・・・。

まとまりがなく、そして答えらしきものも見出せませんでした。

あの震災を目の当たりにして何も感じなかった人はいないと思いますが、具体的な行動にうつせない自分にいら立ちながら、仕事に追われて日々を送っていました。

なぜ焦っているのか、何に焦っているのかわかりませんでした。ただただ、考えていました。

そんな折、同じように考えていた田代さんから今回の映画のお話を頂きました。

「空想の森」のその後を追いかけて、登場人物の方々にインタビューをしている矢先に震災を経験し、悩んだ末に今回の映画を製作することを決意したそうです。

田代さんは、3月11日の震災と原発事故を経験した私たちが「いま」を、そして「これから」をどう生きていくのか、己の在り方、それぞれの幸せの尺度をもった人々やその家族、友人たち、彼らの生活を追いながら模索していきたいと言いました。

僕は是非やらせてほしいと即答しました。

なぜなら、それは僕が震災以降、何か掴めないままやみくもに考え続けていたことの正体であり、そしてそれはきっと今のこの国に暮らす人々が皆等しく漠然と感じていることだと気付いたからです。

誰のためでもなく、自分自身が今後どう生きていくのかを模索するために、この映画に参加したいと思いました。

 

2週間の撮影で僕がこの映画で関わったのは、主に大間原子力発電所の建造に反対している方々のインタビューと、その方々の仕事を含めた生活の取材でした。

その過程で原子力発電所にまつわる国や企業や自治体の実態を知り、その社会構造と法制度のずさんさに激しい怒りを覚えました。

必然的に田代さんや地元の方々と話す内容も原発に関する批判が多くなり、僕自身もいまでは原子力発電に反対する立場をとるようになりました。

もし、この国の原発事情の本質を知れば多くの方が無条件で原子力発電に反対するのではないかと思います。

しかし、多くの事実は秘匿され、マスメディアも政府や電力会社の情報を独自に検証することなく放送してしまうため、事実として認識するのは難しいことと思います。

では、我々はどうすればこの状況を変えられるのか、いったい何から始めればいいのか。

僕は、まずは妻からだと思いました。自分と同じ道を歩んでくれる妻にはこの事実を知ってもらい、そしてどう生きたいのかを共有したいと思いました。

2週間の撮影の間、この問題についても多くの方とお話をさせていただきました。そして、きっとこの映画もその一助になるのではないかと思います。

ただ、田代さんも僕も今回の映画を原発反対運動の映画には絶対にしたくないと思っています。

あくまで、「いま」を、そして「これから」をどう生きるのか、それを描くとき、避けては通れない問題のひとつとして原発反対にかかわる人々の生活を追うのです。

「これから」の生き方を考え、模索していくのが今回の映画だと僕は思っています。

この田代さんとの共通認識を大事にしながら、今後もこの映画の撮影に参加し続けたいと思います。

 

余談ですが、実は、まだこの映画には題名がありません(2011年12月現在)。

撮影の最終日、函館空港へ向かう車の中で田代さんと自分が思う題名を思うままに口に出していきました。

いくつか候補はあがりましたが、しっくりくるものはありませんでした。題名で苦心することは映画においてよくあることですが、裏を返せばそれは作品の全貌がまだ見えていないために起こることなのです。

撮影を重ね、撮影させて頂いた方々に共通する何か、一本の揺るぎない根幹が、あるいはパズルの一片一片が全て繋がったときに見えてくるのかもしれません。

そして、撮影させて頂いた漁師の山本さんの息子さんである卓也さん(この方も漁師ですが)が3月11日の惨事を受けて、「これから」を生きる命を歌にしたいとインタビュー中にお話をされていました。

卓也さんには昨年生まれたばかりのお子さんがいます。

何年先になるかわかりませんよ、と笑ってお子さんを抱きかかえる卓也さんを見て、卓也さんの歌にこの映画の全てが凝縮するような気が僕はしています。

 

*田代からの補足
2012年1月下旬に、ようやく仮タイトルを決めました。「世界が変わってから ~今ここに在る私たち~」としました。
2011年師走、函館空港に向かう車の中で一坪君とああでもない、こうでもないと思いつくままにあげていったことが かなり参考になりました。
そのことはこのHPにもアップしています。下記をクリックするとそこにとびます。
http://www.soramori.net/2012/02/10/8428.htm

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