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撮影報告 その136 片岡輝美さん

輝美さんと二男の自由さん。

 

2012年9月12日。

若松栄町教会に着くと、夕焼けのきれいな空だった。
しばらくその空を撮影した。
若松栄町教会

 

教会の裏にある会津放射能情報センターの建物に入ると、輝美さんがハグで私を迎えてくれた。

去年の会津若松での撮影の時は、このセンターをインタビューの撮影場所として使わせていただくなど、

本当にお世話になった。

一年前、原発事故後のつらかった胸の内や現状を話してくれた輝美さん。

その話は私の心にずっと残っていた。

そして今、震災から1年半がたち、再び輝美さんにお話を伺った。

輝美さんは今も多忙を極めている。
全国のキリスト教の教会から、福島の話をして欲しいと依頼され、月に数回は各地で話をしに飛び回っている。
その他にも、9条の会の活動、福島原発告訴団の活動などにも力を注いている。

輝美さんは、昨日北海道から帰ってきたばかりだった。

明日はまた地方に出かけるという合間に時間をつくってくださった。

今の現状、思うことをいろいろお話してくださった中で私が印象に残ったことを書きます。

色んな地域で福島の話をした時、参加者の方から、
「福島のために何をしたらいいですか?」という質問がよくあるという。
以前は「福島のことを忘れないでください。」とか答えていたのだが、
今は「ここも福島も同じですよ。放射線量の多い少ないという違いだけで、どこも同じ被害を受けている。
だからいっしょにできることをやりましょう。」
と答えるようになったそうだ。
本当にその通りだと思った。

原発事故は距離の問題ではない。

そして、自分の住んでるところをもう少し広い範囲で見渡すと、必ずそれほど遠くない所に原発があるということに気がつく。
そう考えると、日本中の人は福島は他人事でない。
自分の問題である。

今回の震災の時、東北の海沿いの町で津波から多くの人が助かった町があった。

津波の警報が出た時、すぐに逃げることで、逃げようと思っていなかった人たちに対しても自分も逃げようと思わせ、
結果的には自分の命だけでなく、他の人の命も助けたことになった。

「津波でいち早く逃げて命が助かった人たちは素晴らしい判断と行動だったと称賛されるのに、

なぜ子供を放射能から守るために逃げた人たちは気にしすぎだとか、裏切者扱いされるのか。」
と輝美さんは言った。

現在、福島県立医科大学の特命教授・副学長・兼放射線医学県民健康管理センター長に就任した山下俊一氏の事故後の安全キャンペーンは、

福島県の隅々までいきわたり、今も刷り込まれている人が多いそうだ。
それもあり、事故から1年半たった今、福島県民の中での分裂・分断がおこってきている。

会津若松は福島県の中では比較的線量が低いところ。

事故前の空間線量は、福島県はどこも0.05マイクロシーベルト/hくらいだった。
現在の会津若松は0.1マイクロシーベルト/hくらい。
もちろん場所によってこれより高いところもあるが、福島県の中では一番低いところである。

ということで大熊町が町ごと移転してきているし、放射線量の高い福島市や郡山市などから自主避難している人たちも暮らしている。

状況が違う色々な人たちが同じまりに暮らしている。

その会津若松だからこそ、できることどんどんやって、ここから発信していこうと輝美さんたちは日々がんばっている。

同じ福島県で話すときが一番緊張するという。

「安全な会津に住んでいていて、何言っているの。私たちはもっと危険なところで暮らしているのに。」
という言葉を浴びせられることがあるという。

沖縄の教会に呼ばれた時、辺野古のテントへ行ったそうだ。

その時、ずっと座り込みを続けている地元の方が、輝美さんに「福島も大変だね。」と言って抱きしめられたそうだ。
輝美さんはこの時、今まで自分はどれほど沖縄に心を寄せていたのだろう、

そして自分も沖縄の人たちと同じ立場になったのだあと思ったと同時に、

抱きしめてくれた沖縄の人が自分の将来の姿に見えたという。

腹が据わったと輝美さんは言った。

先月、ベラルーシ大統領の招きで福島の子供たちが保養と健康診断に行った。

輝美さんもこれに同行した。

福島でこれから子供たちの被爆による健康への影響が必ず出てくる。

影響が出てきてからでは遅いので、今の時点でできることをやっていこうと、輝美さんたちは勉強し行動している。

子どもたち、そしてこれから生まれてくる子たちのために、今少しでもできることをやりたいという輝美さんの強い思いを感じた。

夕食をいっしょにと片岡家に招かれ、インタビューの後、お連れ合いの謁也さん、次男の自由さん、輝美さんと夕食をいただいた。

自由さんは神戸の大学を卒業し、そのまま神戸で料理人を目指している。

多忙な輝美さんを心配して、今実家に戻ってきて、ご飯をつくったり、情報センターで放射線をはかる仕事をしている。
穏やかでやさしい感じのする青年だ。

情報センターの建物の壁一枚向こうが、輝美さんの自宅だった。

教会のすぐ裏、放射能情報センター(元ベビーホーム)のすぐ横。
「さあ、何を飲みますか?」
と謁也さんが泡盛の一升瓶を抱えてきた。
「車なので。」
と私が言うと、
「近いから車を置いていったらいいじゃない。」
と言われて、飲めることになった。

いただく前に、謁也さんが今日の感謝の言葉を下を向いて目をつむって述べた。

謁也さんの声がすばらしくいい。

これがお祈りだ。

みんなも目を閉じうつむき加減で聞いていて、最後に「アーメン」と言った。
私はそのタイミングがつかめずに言いそびれた。

食する前に感謝を言葉にするってなんかいいなあと思った。

私にとってはわくわくする夕餉の始まりだった。

牧師さんとお話したり、いっしょにご飯を食べるのは初めてのことだ。

謁也さんは私がイメージしていた牧師さんとだいぶ違って、牧師さんと話している意識はほとんど持たなかった。

まず手作りビールをいただき、その後、神戸のお酒をいただいた。

どちらもおいしく、ついつい杯がすすんだ。

自由さんのつくったパスタ、サラダ、オニオンスープ。

オニオンを細切りしてよーく炒めてお出しに浸してしみ込ませたものだった。
さすが料理人を目指しているだけあるなあと思った。

教会のこと牧師さんの暮らしなど、初めて知ることがたくさんあった。

謁也さんも連れ合いの輝美さんも、あちこち飛び回っている。
こんな協会はあまりないということだ。

「ウチは家族みんなが同じ方向を向いているから本当によかった。」

と輝美さんがしみじみと言った。
よくしゃべるしよく笑う家族なのだ。

4人の息子さんはみんな教会が好きだったそうだ。

暮らしと仕事が密接でたくさんの人が出入りする中で、4人の息子さんがみんなから可愛がられて育っていったんだろうなあと思う。
「自由が小学生の頃、お母さん、僕が朝階段下りてきたら、台所でトントントンってやっていて、おはようと言ってね。」
と言われたのよ。
と輝美さん。

「でも毎日バタバタしていて、やれてなかったのよ。」

そう言う輝美さんを自由さんはにこやかに輝美さんを見ていた。

あたたかい夕餉だった。

一年前に私がここに来た時、もうすぐ放射能測定器が送られてくるという時だった。

今、センターでは、引き続きしゃべり場を開催しているし、
和歌山県のクリスチャンの山崎知行医師に月に一度来てもらって、こどもの健康相談の場をつくったり、

そして、ガンマデータ・インストゥルメント社(スウェーデン王国製)放射能測定器で、

持ち込まれた食材や土壌や水の検査もしている。
そうそう、それを見せるわ。
と言って案内してくれた。

センターに上がる階段脇に、センターの色々な活動をパネルにしたものを展示していた。

その中には、私が去年ここにきて撮影している姿もいっしょにあった。

実際今検査を担当している自由さんが、説明してくれた。

測定器は創造していたより小さかったが、100キロもある。
放射能測定器

蓋の部分を持たせてもらったら、それだけでものすごく重かった。

粉砕されたものを20分かけて測定し、そのデータを見て数値と誤差の関係をみてあまりに数値が離れていたら、

もう一度、今度は90分かけて測定してより正確なデータを出すという。
そうして持ち込んだ人が、そのデータを自分の判断材料にしている。

気が付いたらすっかり夜も更け今日が終わろうとしていた。

輝美さんは1階で仕事をしていた。
多忙の中時間を割いていただき、夕食までごちそうになり本当にありがとうございました。
輝美さんからいただいた本。
輝美さんから伺ったお話が凝縮されていた。
多くの人に読んでもらいたいです。
今、いのちを守る ”  出版のお知らせ
福島原発告訴団全国集会の案内
http://aizu-center.com/archives/1871

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