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撮影報告 その84 敦賀から彦根へ

 

朝市で買ってきた野菜。

2011年12月18日。

7:00。冷たい雨が降っていた。太田さんと松原さんは朝市に行くと言っていたので私も一緒に行こうと思っていたが、トイレへ行ってまた眠ることにした。

 

太田さんと記念撮影。

 

8:30。太田さんたちは朝市から帰ってきていた。朝食をいただく。パンとコーヒー。太田さんにお礼を言う。定宿にしてくださいと言ってくれた。太田さんから鶴賀の歴史を聞いてまた来て行ってみたいところが増えたし、ぜひたま歴史の話を聞きに来たいと思った。

 

敦賀。比気神社の前。

9:30。私は車に荷物を積み込み、長浜に向けて出発。先月、MO通信という滋賀県の雑誌の辻村琴美さんから連絡があり、取材を申し込まれたので敦賀から彦根に行く途中の長浜で取材を受けることになった。

琵琶湖。

11:00。取材場所のホテルに到着。太田さんの家の鍵をポケットに入れてきてしまったことに気が付く。太田さんに電話。年末か年始に敦賀に来る時でいいですよと言われたが、念のため送りますと言って電話を切った。

左から、ライターの山崎さん、辻村琴美さん、キャメラマンの辻村耕司さん。

小奇麗なホテルの中に入っている2階の和食屋さんの一室が用意されていた。インタビュアーは琴美さん、キャメラマンはだんなさん、そしてライターは山崎さんという女性だった。琴美さんとは、大津の友の会の上映会の打ち合わせの時に初めてお会いしてから、ちょこちょこ上映会の時などに顔は合わせていた。だんなさんとは、能登川の上映化の打ち上げで初めてお会いした。

そんなこんなで、色んな話をした。今取材撮影している映画のことを中心に話をした。あらかたインタビューが終わり、日本料理のコースを4人でいただきながらまた話に花が咲いた。とてもおいしかった。そして外に出て琵琶湖をバックに写真を撮影された。キャメラを持ってくださいというので、私も撮影をしながら、写真で撮影された。

14:30。終了して私は彦根へ向かった。あー終わったー!どっと疲れが出た。彦根まであと一息だ。

17:00。奥田さんの家に到着。奥田さんは元気そうだった。野菜をたくさん用意して、夕食を用意していてくれた。まず風呂にゆっくり入らせてもらった。洗濯もさせてもらった。そして晩御飯。ごはん、粕汁、赤かぶらの酢の物、漬物。そして七翻槍の今しか飲めないにごり酒を出してくれた。おいしくて全部飲んだ。リラックスして解放された気分で私は少し酔っぱらった。

撮影報告 その83 番外編 太田さんから聞いた話 メモ

太田さんから聞いたお話色々。

北前船、北国船で、敦賀の港からから東北、北海道へモノが行き来していた。敦賀は商人の町だった。江戸の初期、年間50万表の米が敦賀に入った。ここから、大阪、京都へと米が流れていった。敦賀は少し前まで人口3万人だった。400年もの間ずっと3万人の町だった。そしてこの町には神輿が30もある。この規模の町で神輿が30というのは非常に多いそうだ。

 

戦国時代、この辺りには千人以上も大名がいた。その米は敦賀からみんな流れていったので、だまっていても売れたので、商人の愛想が悪い。それは今も同じだそうだ。

お花見はどういうところから始まったか。昔中国で梅を鑑賞していた。中国の人は梅の花の中に神がいると考えた。そこで秋の実りをお願いすることを始めた。そのためにお供えをした。それを食べたことからお花見が始まったそうだ。

 

福井県の県鳥・ツグミは昭和30年第頃まで、毎年冬になるとシベリアからやってきた。敦賀は空が真っ黒になるくらい大群できていた。今は一匹もこなくなった。

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撮影報告 その83 敦賀の歴史と敦賀原発・もんじゅ・美浜原発

もんじゅ。
美浜原発。

敦賀原発。

2011年12月17日。
8:00。起床。雨や時々みぞれが降っている。
太田さんの家にて。
朝食後、薪ストーブの部屋で太田さんの歴史の話をお聞きした。敦賀の歴史を4世紀の頃にさかのぼって色々な話をしてくれた。個人授業のようだった。敦賀の歴史は実に面白い。知らないことばかりだった。「あなたそんなことも知らないの?」と太田さんに言われながら、あっという間に午前中が過ぎた。
越前水仙
昔、週に1回、太田さんの家に集まって反原発の運動をして色々やっていたが、うまくいかなかった。なんでこんなにやっているのにうまくいかないのだろうと太田さんは不思議に思ったので、敦賀の歴史を研究している岡田先生に聞いたそうだ。
岡田先生は「庶民の歴史を知ったら、反原発運動がうまくいかないとわかる。」と言ったそうだ。太田さんは目からうろこだった。庶民に歴史があると思ってもいなかった。それから歴史を勉強しだした。

そんな中、太田さんは、「アイヌのことを教えてほしい。」と岡田先生に言った。すると先生は「民族に関する研究は日本ではタブー。なぜなら天皇につながるから、だれもお金を出す人はいないので、研究する人もいない。」と言ったそうだ。

太田さんからいただいたえんぴつと専用のえんぴつ削り。
太田さんは太くて濃い鉛筆で、裏紙に書いて私に説明してくれた。その書き心地がよさそうだったので、その鉛筆とてもいいですねというと、東京の画材屋さんのもので、まだあるから後であげるわと、2本いただいた。とても嬉しかった。
みぞれ混じりの雨は止まなかったので撮影はできなかった。その代わり、太田さんはとても面白い歴史の個人授業をしてくれたのだと思う。贅沢な時間だった。私の疑問になんでも答えてくれた。
このカップもいただいた。旅に持ち歩こうと思う。
そうしているうちに東条さんがやってきた。杉原さんが持たせてくれたタコ飯、おでん、おかず色々など、お昼ご飯を3人で食べた。
そして東条さんと2階の資料館を太田さんといっしょに見学した。昔の写真、かご、ガラスのコップ、弁当箱、着物など、なかなか見応えがある。
太田さんが「あなたお酒好き?」と私に聞いた。「はい。大好きです。」と答えた。すると「もらってもらいたいものがあるの。」と箱に入った九谷焼のきれいな絵付けのとっくりとおちょこのセットだった。「こんないいものを。」と言ったが、「あげる人を探していたの。」と太田さん。私は美しい九谷焼をありがたくいただくことにした。
13:30過ぎ、私と東条さんは白木へ向かった。美しい海岸線と山々だった。
美浜原発。
しばらく走ると美浜原発が目に飛び込んできた。途中みぞれの中、車を止めて撮影。
白木トンネル
それからいよいよもんじゅへ。今地震が起こらないで欲しいよねと東条さんと言いながら山道を走った。
白木トンネルを抜けたところ。右へ行くともんじゅ。左へ行くと白木。
白木トンネルを抜けた。雨は止んでいた。目の前は海。後ろは山が迫っている。
白木の集落。
その海岸べりに小さな集落があった。ここが白木の集落だっだ。
海側からみた白木の集落。
白い砂浜の、向こうにもんじゅが建っていた。絶え間なく波が打ち寄せている。いつも思う。美しい海に原発の建物は似合わない。
砂浜の向こうがもんじゅ。
色々な所から撮影をした。そろそろ終わりにしようかという頃、再びみぞれが降ってきた。
白木トンネルの手前からの美浜原発。
煙を出しているのは敦賀湾の火力発電所。
敦賀原発。
そして敦賀原発に向かった。原発の門番の人に聞いて、PR館の敷地の中から撮影をした。セキュリティーの問題があるから取水口が入らないように撮影してと係の人に言われた。モクモクと蒸気を出していた。今は定期検査中などで稼働していないそうだ。4000人の人がここで働いているそうだ。
夕方、福井の玉井さんが小浜に用事があり、その帰りに寄るということだったので、急いで杉原さんの家に向かった。
18:00頃まで待っていたが来なかったので、杉原さんにお礼を言って、私は太田さんの家に帰った。
太田さん家に戻ると、近くの銭湯を教えてくれたので夕食前にひと風呂行くことにした。番台があり、昔の銭湯そのままだった。とても気持ちのいいお湯だった。
家に帰って夕食。白菜と豚肉の鍋、いも、うどん。
太田さんはこの家の隣の浄土宗の寺の娘だった。今は寺の横の敷地に古い民家を移築して住んでいる。小僧制度のあった時代の話を聞いた。口減らしで5歳とか7歳くらいの子を寺に預けその子は小僧としてたいがいは大変苦労するのだそうだ。そしてまたひとしきり話をした。
事務仕事をして就寝。

撮影報告 その82 杉原厚子さんと太田和子さん ~敦賀にて~


太田和子さん。今も体調がいい時には原電の前に立っている。
これれと下の写真は杉原さんの家の食堂に張ってある。

阿弥陀見の浜。

2011年12月16日。

8:30。起床。冷たい雨が降っている。朝ごはん。私はまた野菜をたくさん入れて雑炊をつくった。杉原さんと東条さんと3人で朝食。

杉原厚子さん。

10:00。杉原さんのインタビュー。東条さんも自分のビデオで撮影。戦争の話、小学校の先生時代の話、原発の話などお聞きする。

敦賀は昔、北前船、北国船の港で、交易の中心地としてとても栄えていた。敦賀からウラジオストックの航路があり、敦賀の人は下駄をはいてウラジオストックに行ったそうだ。

杉原さんが小学校の時、先生が「皇運扶翼の為に日本人は生まれてきた」言った。その意味がわからなかった杉原さんは先生に質問した。「アメリカ人は何の為に生まれてきたのですか?」と。「そんなこと考えんでもいい。」とひどく怒鳴られたそうだ。それ以来、疑問に思うことを先生には質問しなくなったそうだ。

そんな杉原さんは小学校の教師になった。そして敗戦を迎えた。今までそして一度教師をやめた。今まで子どもたちに何を教えてきたのかと悩んだそうだ。そしてまた教師に戻った。

杉原さんは3人の兄がいた。幸いみんな帰ってきた。一番上の年の離れたお兄さんは、復員してきてから暴力をふるうようになりとても怖かったそうだ。その頃はその理由がわからなかったが、もうそのお兄さんは亡くなってしまったが、最近その理由がわかったそうだ。きっと戦地で人を殺し、悲惨な状況の中にいて心に傷を負っていたのだと。「その頃わかってあげられなくてかわいそうなことしたなあ。戦争はほんま、嫌ですわ。」とぽつりと言った。

杉原さんと東条さん。

杉原さんは松原小学校で先生をしていた。日本が敗戦して、敦賀半島には僻地に四つ、分校があった。若い時に今もんじゅが建っている白木分校に何か月が教えにいったことがあるそうだ。その頃の白木は交通の便が悪く、病人が出ると戸板に乗せて船で美浜まで運ばなければいけなかったという。しかし海がしけていたらそれもままならなかった。陸路はないに等しい状態だったそうだ。「よう覚えとらんけど、イカをたくさん食べたなあ。おいしかったなあ。」と杉原さんは言った。

現在、白木には15軒ほどの民家がある。甲状腺癌になる人が多いと白木で介護をしていた人から聞いたそうだ。

「戦争中と今はおんなじや。政府は嘘ばっかりいっとる。」と杉原さんは何度も言った。そしてそのことと、地球を汚したくないという思いが杉原さんの反原発の原点であることが分かった。

16:00。太田和子さんのお宅へ向かう。


杉原さんの家から太田さんの家に向かう途中の風景。

午後、太田和子さんのお宅へ伺う。東条さんもいっしょに行きたいというのでいっしょに行く。

 

 

太田さんの家。

 

6月に福井の玉井さんに太田さんのお宅に連れてきていただいてインタビューをさせてもらった。その途中、彼女が具合が悪くなり中断したので、今回また続きを聞こうと太田さんに連絡をした。すると彼女は、「具合が悪くなるので原発の話はしたくありません。でもせっかくいらっしゃるのならウチに泊まって下さい。」と言った。私が「じゃあ、敦賀の自然の話を聞かせてください。」と言ったら、「それもすべて原発につながるので話したくありません。」と言った。「じゃあ、それ以外の話をしましょう。遊びに行きます。」と私は言って電話を切ったのだった。

 

 

太田さんの家に着き、薪ストーブが燃える温かい部屋に通された。太田さんは元気そうだった。太田さんの別棟の家に下宿している松原さんという高校の英語の先生をしている女性がコーヒーとクッキーをだしてくれた。

そして東条さんも自己紹介をして、お茶を飲みながら3人でおしゃべりをはじめた。

三方の増井さんから太田さんに連絡があって、増井さんがぜひ泊りに来てくださいと言っていましたよとのこと。とても増井さんの家は海が見える素敵な家とのこと。がぜん泊りに行きたくなった。

 

太田和子さん。

太田さんが、私の今回の旅はどんなものかを尋ねたので、大間の漁師さんの話、函館での大間原発の裁判の話、これから行く滋賀、大阪、名古屋の話をした。

 

原発の話はしたくないと言っていた太田さんだったが、話は自然に原発のことになった。「1965年に私は若狭で一人で反原発運動を始めた。3.11後、もの言えぬ植物や動物のかわりに一人で反原発運動をして終わろうと決めた。」と言った。重い言葉だった。

そして太田さんは私に言った。「明日、午後から天気になるそうです。土曜日で会社は休みだけどあなたが来たから原電の前に立つから、それを撮ったらどうですか。」と。私は耳を疑った。

太田さんは日本原子力発電敦賀地区本部の入り口に、「埋立てないで阿弥陀身の浜」と大きく書いた紙をもち、じっと立つという抗議行動を一人でずっと続けている人だ。一人で何年も前から体の具合の悪い日以外、今も立っている。

原発の話は空しくなるだけでしたくない、ビデオも写真もやめてくださいと私に言っていた太田さんが、こんなことを言ってくれるなんて私は思ってもみなかった。今回私は、ただ太田さんの家に泊めていただいて、おしゃべりするだけで十分だと思っていた。太田さんと原発の話抜きでも、もっと話をしたいと私は思っていたから今回敦賀にきたのだった。私はとてもとても嬉しくて、もちろん撮影させてくださいと即答した。言葉でなくてその行動を私に見せようと彼女は思ったのだと思う。それをしっかり受け止めて私は撮影しようと強く思った。

そして海で泳ぐという話から、もんじゅのある白木という集落の人の話になった。交通の便の悪いところでみんな魚を獲って暮らしていた。白木の人たちが獲った魚を敦賀の仲買人が買いたたき、大儲けをしていた。それが300年も続いていたのだった。そしてもんじゅがこの地に立った。この白木の人たちの怨念でもんじゅが建ったと思うと太田さんは言った。

戦争の話も。私の土台は軍国主義。そして昭和20年、15歳の時、価値観がひっくり返った。昨日までの正義が最低のものになり、アメリカのデモクラシーが最高のものになった。ぐしゃぐしゃにした糸の塊を頭の中に押し込められた感じで今もほどけてないのだとも言った。

1981年、敦賀原発で放射能を垂れ流しするという事故があった。原発は生コンを毎日使うので、業者が毎日運び込んでいる。友人の夫がそのダンプの運転手をしていた。事故の時も生コンを原発に運び込み、出る時に車の放射能測定でピーピー鳴っていた。その時タオルで車をふいただけだった。そしてそのダンプは普通に市内を走っていたという。

また福井の県鳥・ツグミは昭和30年くらいまで、冬になるとシベリアから渡ってきた。空が真っ黒になるほどだった。それが今では一匹も来なくなったそうだ。太田さんは色んな話をしてくれた。実に興味深かった。東条さんは杉原さんの家に帰っていった。彼は明日もまた私の撮影についてきたいというのでいいよと言った。


私が寝た部屋。

松原さんが別棟の私が寝る部屋に案内してくれた。木造の味のある建物。部屋にはストーブもあり、フカフカの布団だった。とても落ち着く部屋だった。原発関係の資料もたくさんあって、好きなものを持って帰っていいと言ってくれた。

そして太田さんと松原さんと3人で夕食。ワインが出てきたので、車に常備している山田農場のチーズとこなひき小屋のパンを出した。太田さんがチーズもパンもおいしいといってくれて嬉しかった。そしておでんとごはんをごちそうになった。

22:00頃まで太田さんと猫の話や敦賀の色んな話をしてとても楽しかった。私は大間の話や会津若松の話もした。太田さんは薪をくべながら静かにこう言った。「田代さん、人間はどうしようもないのよ、失ったものは二度と帰ってこないの、もう遅すぎるのよ。」あまりにも重い太田さんの言葉に私は何も言うことはできなかった。でも私は思った。太田さんが人間は捨てたもんじゃないと思える映画を私はつくりたいと。

「明日もウチに泊まっていっていいのよ。」と太田さんは言った。

私は嬉しかった。とてもコーフンした晩だった。

撮影報告 その81 山崎隆敏さん ~越前市~

2011年12月15日。

9:00。起床。東条さんはすでに起きていて杉原さんとご飯の支度をしていた。杉原さんは朝魚市場に行ってタコ、ブリの子、タラなどたくさん魚を買ってきていた。

タコをゆでで、タラを煮つけにしていた。昨日のうどんの汁の残りに、モチ、白菜、大根、ネギなどをいれて煮た。


東条さんは杉原さんの手を引き、ゆっくりと車にのせる

11:30。車に撮影機材、炊き込みごはん、タコ、魚、せんべいなどを積み込み、杉原さん、東条さんと3人で越前市へと向かった。

杉原さんが山崎隆敏さんという反原発活動をしている方の話を聞いた方がいいというのでセッティングしてくれたのだ。

山崎さんの家

1時間ほど車を走らせた。山間の集落に山崎さんのお宅があった。家に入り、早速4人でいっしょにお昼ご飯を食べた。持っていった魚を山崎さんは上手にさばいて刺身にしてくれた。ブリの子は鮮度がよくて本当においしかった。

山崎隆敏さん

そして山崎さんのインタビューをさせてもらった。町の議員として反原発を訴えて活動していた時の話、チェルノブイリ事故後に視察に行った時の話などを話してくれた。途中、込み上げてくる思いがあったようで涙を流しながら思いを話してくれた。

このみずやは近所の家が壊されるときに捨てるものだったそうだ。それをもらってきた。明治時代のもの。

インタビューの途中、杉原さんが居眠りしていて、ズルっと椅子から落ちそうになったのには笑った。

3:00。山崎さんの家をあとにした。杉原さんは車の後ろの席に座ると言った。そして「あれ、東条さん、私の隣座らへんの?」と言った。後ろは荷物が積んであるので一人しか座れない。私は「杉原さん、すっかり東条さんが気に入ったんですね。」と言った。「なんでも食べるし、よく気がつくし、東条さんは見込みある。」と杉原さんは言った。

杉原さんの家に帰り、夕食の支度にかかった。私は野菜をたくさん入れて雑炊をつくった。けっこうたくさんの量になった。雑炊を食べながら杉原さんが「戦時中みたいやな。米がちょっとしか入っておらんわ。」と言った。私はおかしくて笑ってしまった。

そして私は事務仕事。杉原さんは大好きな東条さんとおしゃべり。

19:30。近くの銭湯に3人で行く。時々みぞれが混じる冷たい雨が降っていた。

1時間ほどお湯につかり温まる。杉原さんも気持ちよさそうだった。

帰ってきて3人でおしゃべりしながら豆乳とビールを飲む。杉原さんはアルコールを飲めないのでみかんを食べていた。

87歳の杉原さん、20代の東条さん、40代の私の3人トリオの共同生活もなかなか心地よい。

22:30。事務仕事をしてから就寝。

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