肥田舜太郎先生 1917年広島生まれ。 1944年陸軍軍医学校を卒業、軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。 1945年広島にて被爆。被爆者救援にあたる。全日本民医連理事、埼玉民医連会長などを歴任。 現在、全日本民医連顧問、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長。
2011年8月9日。 こなひき小屋に寄り、無事、三脚を受け取る。 そして函館市民会館へ向かう。
肥田舜太郎先生の講演会。
肥田先生は28歳の時に広島で軍医として自らも被爆しながら、多くの被爆者の医療、救援活動を続けている。 私は3.11の直後、「医師が見た被爆者の生と死~原爆被害、隠蔽と放置の12年間~」
という肥田先生の文章を読みとても衝撃を受けた。
その肥田先生の話を直接聞けてしかも撮影もさせてもらえることになった。
講演前、大場さんがスタッフの方々に私を紹介してくれた。
そして会場入りした肥田先生にご挨拶にいった。
柔和な方で写真撮影にも快く応じてくれた。 今回の講演はは「ヒロシマ・ナガサキ被爆体験を受けつぐ集い」の中で行われた。
函館にも広島・長崎で被爆した方々がたくさん住んでいる。年々高齢化がすすみ、亡くなっていく方々も増えていく。
原爆を体験した方から直接話を聞くことは貴重なことだ。 先日お会いした平方亮三さんも来ていた。
二三言葉を交わしたが、今日もとても元気で明るかった。
平方さんも長崎で被爆をした。
一番後ろにキャメラのセッティングをした。
大間訴訟の会の人など、知った人が続々と会場に入ってきた。
肥田先生の講演が始まった。
内部被ばくの恐ろしさ、そして正しい知識を学んでなるべく放射能を取り込まないことを訴えていた。
自分も被爆し、その後被爆者の治療にあたってその実態をつぶさにみてきた人の言葉の重みはすごかった。
現在被爆を体験した医師は、肥田先生ただ一人になってしまったそうだ。
だから先生は生きているうちに自分が一人でも多くの人に伝えていかなければいけないという思いでいるのだろう。 福島第一原発の事故に関しては声をあらげて怒っていた。
この件で責任ある者は全員捕まえて死刑にするべきだと。 閉めの挨拶は森越さんだった。
講演会が終わり撤収。そしてその足で野村さんと石川さんといっしょに民族音楽祭に向かった。
会場に着くと最後の演目。大マグロックで見たラビラビのライブが始まった。パザールバザールの國立夫婦、大マグロックで出会った若者にも会う。
たくさんの出店並んでいてにぎわっていた。私たちはお腹がすいていたので、早速食べ物を買って階段に座って食べた。
私も野村さんも呑兵衛なので、迷わず代行で帰ろうということになった。
暑かったのでビールがとてもおいしかった。
前田さんのタイ料理がホントおいしかった。
代行を待つ間、三人でフリスビーをして楽しんだ。
暗くても結構できるのもだ。
野村さんが意外にうまかった。 野村家でまた二人でとりとめのない話。
そしてあー早く寝なくっちゃ、せめて今日中に寝るようにしようねといつものごとく言い合って眠りにつく。
2011年8月10日。 野村家を後にし、チーズを買いに大沼の山田農場へ。
ひとしきり今回の撮影のことなどを話す。
そしてお昼ご飯を一緒にと言ってくれたのでごちそうになる。
圭介さんのご両親が産後の手伝いに来ていたのでみんなでにぎやかに食卓を囲む。
晴作も元気におっぱいを飲んでいた。
[…]