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撮影報告 その26 肥田舜太郎先生講演会・苫小牧

肥田舜太郎先生 1917年広島生まれ。 1944年陸軍軍医学校を卒業、軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。 1945年広島にて被爆。被爆者救援にあたる。全日本民医連理事、埼玉民医連会長などを歴任。 現在、全日本民医連顧問、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長。

2011年8月9日。 こなひき小屋に寄り、無事、三脚を受け取る。 そして函館市民会館へ向かう。

肥田舜太郎先生の講演会。

肥田先生は28歳の時に広島で軍医として自らも被爆しながら、多くの被爆者の医療、救援活動を続けている。 私は3.11の直後、「医師が見た被爆者の生と死~原爆被害、隠蔽と放置の12年間~」

という肥田先生の文章を読みとても衝撃を受けた。

その肥田先生の話を直接聞けてしかも撮影もさせてもらえることになった。

講演前、大場さんがスタッフの方々に私を紹介してくれた。

そして会場入りした肥田先生にご挨拶にいった。

柔和な方で写真撮影にも快く応じてくれた。 今回の講演はは「ヒロシマ・ナガサキ被爆体験を受けつぐ集い」の中で行われた。

函館にも広島・長崎で被爆した方々がたくさん住んでいる。年々高齢化がすすみ、亡くなっていく方々も増えていく。

原爆を体験した方から直接話を聞くことは貴重なことだ。 先日お会いした平方亮三さんも来ていた。

二三言葉を交わしたが、今日もとても元気で明るかった。

平方さんも長崎で被爆をした。

一番後ろにキャメラのセッティングをした。

大間訴訟の会の人など、知った人が続々と会場に入ってきた。

 

肥田先生の講演が始まった。

内部被ばくの恐ろしさ、そして正しい知識を学んでなるべく放射能を取り込まないことを訴えていた。

自分も被爆し、その後被爆者の治療にあたってその実態をつぶさにみてきた人の言葉の重みはすごかった。

現在被爆を体験した医師は、肥田先生ただ一人になってしまったそうだ。

だから先生は生きているうちに自分が一人でも多くの人に伝えていかなければいけないという思いでいるのだろう。 福島第一原発の事故に関しては声をあらげて怒っていた。

この件で責任ある者は全員捕まえて死刑にするべきだと。 閉めの挨拶は森越さんだった。

講演会が終わり撤収。そしてその足で野村さんと石川さんといっしょに民族音楽祭に向かった。

会場に着くと最後の演目。大マグロックで見たラビラビのライブが始まった。パザールバザールの國立夫婦、大マグロックで出会った若者にも会う。

たくさんの出店並んでいてにぎわっていた。私たちはお腹がすいていたので、早速食べ物を買って階段に座って食べた。

私も野村さんも呑兵衛なので、迷わず代行で帰ろうということになった。

暑かったのでビールがとてもおいしかった。

前田さんのタイ料理がホントおいしかった。

代行を待つ間、三人でフリスビーをして楽しんだ。

暗くても結構できるのもだ。

野村さんが意外にうまかった。 野村家でまた二人でとりとめのない話。

そしてあー早く寝なくっちゃ、せめて今日中に寝るようにしようねといつものごとく言い合って眠りにつく。

 

2011年8月10日。 野村家を後にし、チーズを買いに大沼の山田農場へ。

ひとしきり今回の撮影のことなどを話す。

そしてお昼ご飯を一緒にと言ってくれたのでごちそうになる。

圭介さんのご両親が産後の手伝いに来ていたのでみんなでにぎやかに食卓を囲む。

晴作も元気におっぱいを飲んでいた。

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撮影報告 その25 ラムヤート・洞爺湖

洞爺湖。 2011年8月6日。 洞爺湖のパン屋さん・ラムヤートの今野満寿喜さんの撮影に向かう。 マスキさんのモノのとらえ方・考え方は独特で個性的。 そしてその暮らし方が私にはとても魅力的だ。 数か月前、初めて会った時から折々撮影させてもらうことになった。 洞爺湖に行くと空に近いというか、言葉でいい表せないのだけど洞爺独特の空気を感じる。 そしてラムヤートはもうずっとずっと前からここにいるかのようにたたずんでいる。 「こんにちは」と店に入ると、「少し前からここで働くようになりました。」と柔らかな声の青年が私に言った。 マスキさんがスカウトしてラムヤートに住み込みで働いているゴンちゃんだった。 店にはあゆみちゃんが立っていた。 あゆみちゃんもマスキさんにスカウトされてここで働いている古株。 マスキさんの息子・ゆうら君も真っ黒に日焼けしていた。 コーヒー豆のようだとみんなに言われているそうだ。 「マスキさんはおにぎり屋の方にいますよ。」とゴンちゃんが案内してくれた。 おにぎり屋がオープンしたのだ。前に私が来た時、マスキさんは内装をやっていた。 おにぎり屋の小屋の入口には緑の葉っぱが茂っていて、数段の階段もいい感じ。中に入ると右手に木の机。 その上にちょこんとショーケースが置かれ、中には見本の6種類ほどのおにぎりが並んでいた。 窓際の棚などになぜか古い文房具がディスプレイされていた。 これが実にオシャレに並んでいる。 コンパス、竹の物差し、磁石、鉛筆、はさみなどなど。ここにあるものはみんな洞爺のもので買ったものはない。 自分が気持ちいい空間をつくった。 とマスキさんは楽しそうに言う。 ホント、マスキさんのセンスはいい。 午後、お客さんが途切れた頃、「風呂に行こう!。」とマスキさんはゆうらといっしょに向かいの洞爺湖へ。 ゆうらは真っ裸。「あー、気持ちいいー!」と湖に入り、親子で行水。 夏は湖が風呂替わりで、日に何度も入るそうだ。 夕方、店仕舞いして、マスキ一家とゴンちゃんと一緒に伊達の路地裏祭りへ。 武者祭りが大通りで開催されている。その小さな路地で路地裏祭りが開かれている。 でも今年で最後なのだそうだ。 なんでも再開発で建物が取り壊され、路地もなくなるからだそうだ。 伊達。武者祭り。 本当に、建物と建物の間の狭くて短い路地裏だった。 でもそこは、わくわくさせられる空間だった。 gla-glaさんガラス、スイーツ屋さん、手作り雑貨屋さん、キャンドル屋さん、シルバーアクセサリー屋さん、かき氷屋さん、ラフテー、浴衣リメイク屋さん、ジャム、スコーン屋さん、リメイク子供服屋さん、アジア雑貨屋さん、牛乳プリン屋さん、カレー屋さん、青barなどなど、所狭しと並んでいた。 まずはビール。暑い夏にはやっぱりビールだ。 最後の祭りとあって、たくさんの人が路地裏に集まってきていた。 大マグロックで出会ったかたつむりスピードのじゃんじゃんに声をかけられた。 カレー屋をやっていた。 ほんと縁があるなあと思った。 武者祭りの山車も見た。 音楽や踊りに風情が感じられなかった。 ミワさんが「鳩山由紀夫さんがいるよ。」と道路の向こうを指差した。 色んな人にあいさつしていた。 マスキさんのお連れ合いのミワさんと息子・ゆうら。 路地裏祭りの投げ銭ライブ。 路地の真ん中にステージ。ここで投げ銭ライブ。 苫小牧のれいかさん、洞爺のトリトメトリなどのライブを聴いた。 歌い手もお客さんもみんな最後の祭りを惜しんでいた。大人たちは合いの手をいれたり踊ったり、子どもたちは走りまわり、めちゃくちゃ盛り上がった。 ここで10年以上もこうやって毎年やってきたのだなあと思った。 とても楽しかっただけに、祭りの後は少しさみしくなった。 ゆうらはマスキさんに抱かれすっかり寝入っていた。 ラムヤートに帰り、少し飲んでから寝るかということで、マスキさんとミワさんとまったりとしていたら、少しのつもりが結構な時間になっていた。 そしてゆっくりと眠った。 […]

撮影報告 その24  森越清彦さん・中野宏典さん

森越清彦さん。 2011年8月2日。 大間訴訟の会の函館の弁護団をひっぱっている森越清彦さんのインタビュー撮影。 忙しい中時間をつくっていただいた。 3.11のこと、裁判のこと、なぜ弁護士になったのか、裁判の原告になるということはどういうことなのかなど、色んなことをお聞きした。 森越法律事務所。函館市。 インタビューが終わって、森越さんに誘われ、国際ホテルの平方亮三さんの版画展を見に行った。 平方さんは長崎で被爆をしたそうだ。 今も色々体の具合が悪いそうだ。 平方さんはよくしゃべる快活な人だった。 福島のことに怒っていた。 作品はとても繊細で素敵だった。 夜、野村家で石川さん、佐々木さんも来て私の誕生日を祝ってくれた。 佐々木さんの作ってきてくれた煮物がとてもおいしかった。 江差。 中野宏典さん 2011年8月4日。

 

 

江差の法テラス江差法律事務所へ向かう。 中野宏典さんのインタビュー撮影。 私は江差は初めて訪れた。 天気も良く海がとてもきれいだった。 お昼は海沿いの蕎麦屋に入った。 ここの蕎麦がまたおいしかった。 中野さんの職場・法テラス江差法律事務所。この後ろは海。 中野さんは弁護団会議でわからないことはよく質問し、思ったことは発言する人だ。 なぜ大間の弁護団に入ったのか、原発についてどう思うかなど、色々なことをお聞きした。 帰り道、厚沢部で温泉に入った。 そして七飯の親方の家に帰った。 2011年8月5日。

 

 

お世話になっている親方の家のネコ。ペコちゃん。お日様をあびてお昼寝。

 

ゴロン。

 

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撮影報告 その23 大間現地視察2日目

佐井から仏が浦に向かう船からの眺め。 2011年7月31日。大間視察2日目。 佐井港から観光船に30分ほど揺られて仏が浦へ。 海沿いの岩が波に浸食され、平らな面ができる。 それが隆起によって海面より上にあがり、ベンチ(平らな面)ができる。 断層があるのでこういうことが起きるのだ。 仏が浦にベンチがあるとのことで、みんなでそれを確かめに行った。 仏が浦の船着き場付近。 私は小学生の頃、ばあちゃんや家族と仏が浦を訪れたことがある。 海の水がとてもきれいで、岩だらけの浅瀬に魚がいっぱいいた。 もっとここで遊んでいたかったという記憶が今もある。 船着き場の辺りなど整備されていたが、30年ほどたった今も同じように海がきれいだった。 手の届きそうなところにウニがたくさんいた。 このような巨岩がそびえたっている。 向こうの切り立った岩の下にある平らな面の岩がベンチ。 海岸線を見てみると、ベンチが確かにあった。これはわかりやすい。 30分の滞在時間はあっという間に終わり、再び佐井へと戻る船に乗り込んだ。 10:30 佐井港に到着。大間へ向かう。 大間原子力発電所を色々な角度から見る。 小高いところから原発を眺める。 原発まで一番近いところまで行ってみる。道路だと、この先へは行けない。 海岸線はみんなのもの。みんなで波打ち際を歩いて原発に近づいていった。 食べられそうなのりが一面にはりついている。 こんなに近くまできた。 実際来なければ感じられないもの、改めて実感することが多々あった。 原発マネーでできたアワビなどの養殖場。原発のすぐ近くにある。 養殖場の近くの海岸線から原発を見る。 再び本州最北端の大間崎へ。 大間崎から。右の方は濃いブルーの海。そこからどーんと深くなっているそうだ。 漁師さんの店で昼食。ウニ・イカ・マグロの大間丼、マグロ丼、マグロウニ丼、マグロづけ丼などを食べる。私は悩んだ末マグロづけ丼を選ぶ。 とてもおいしかった。 食べていたら、マグロ漁師さんが漁のやり方など、道具も見せてくれながら説明してくれた。 河合さんがすかさず漁師さんに原発についてどう思うかを質問した。 漁師さんはできても仕方がないと複雑な心境を語った。 そして午後のフェリーで大間から函館に帰った。 フェリーの中で、森越さん・大場さん・白さんで、大間訴訟の会で山田農場へピクニックに行こう!と話が盛り上がった。 そして函館の弁護団のリーダー・森越さんと若手の中野さんにインタビューをお願いした。 夕方、函館の港に無事到着。 河合さんが最後に、現場に身を置くことの大切さを話し解散した。 弁護士の人たちも、それぞれの思いでこの裁判をやっていることがよくわかった。 私は4回目の大間訪問だった。炉心に燃料棒が入る前に止めたいと痛切に思った。 […]

撮影報告 その22 弁護団の大間現地視察

2011年7月29日。弁護団会議。 午後から弁護士会館にて弁護団会議。 原子力資料情報室の澤井さん・上澤さんも来ていた。 河合弘之さん。 7月に脱原発弁護団連絡会が発足した。 私も新聞で読んでいた。 会議の冒頭、河合弁護士が脱原発弁護団について話をはじめた。 いつも思うのだが、河合さんはよく通る張りのある声でみんなをひきつける。 3.11は不幸なことではあるが、日本の原発を全て止める絶好のチャンスでもある。 弁護士たちは今までそれぞれのタコツボで戦ってきたが、これからはみんなで連帯してやっていこうと河合さんが全国の弁護士に呼びかけた。 7月16日の初めての会合では全国から100人の弁護士が集まり大盛況だったそうだ。 今までの原発裁判は全戦全敗だったが、これからは全戦全勝だ!と言う河合さんの話をきいていて、私は明るい気持ちになっていった。 会議は夜まで続いた。 函館のフェリー乗り場にて。 2011年7月30日。大間現地視察。 函館・東京の弁護士たち、原告、新聞記者など総勢16名で大間へ現地視察へ。 私は機材を抱えて早速撮影を開始する。 弁護士の人たちもラフな格好でいつもと違った雰囲気だった。 私は若い弁護士の人たちとほとんど話したことがなかったが、何人かの人と船の中で話ができてよかった。 大間か近づいてきて、みんなで甲板に出た。大間原発を船上から見た。 民家と近いことにみんな改めて驚いていた。 奥本征雄さん。大間町在住で前回の裁判では意見陳述をした。 大間に到着すると、奥本さんと佐藤さんが出迎えてくれた。 天気も上々、大間は海の水は今日も抜群にきれいだ。 早速車4台に分乗し、海峡保養センターへ昼食。保養センターの玄関に、電源開発御一行様と看板が掲げられていた。 それを見た森越弁護士は、大間原発訴訟の会御一行様の看板も出したら面白かったのにねなどと言った。 海峡保養センターにて。本日の視察のスケジュールを説明する奥本さん。 廊下を挟んだ向かいの部屋では、電源開発の団体が昼食をとっていた。 お刺身など海の幸を堪能する。 暑かったのでビールもおいしかった。食後、時間があったので温泉に入る人も。 私は河合さんにインタビューのお願いをした。 脱原発弁護団の話をもう少し聞きたいと思ったからだ。 河合さんは快く応じてくれた。 そして、大間の町と原発が見下ろせる展望台へ向かう。 海と山々が美しい大間に原発の建物と送電線はやはりそぐわない風景だと改めて思う。 総合文化センターウイングにて。 ウイングは100パーセント原発マネーで建てられて施設。多目的ホール、図書室、視聴覚室、郷土資料展示室などの文化施設のほか、屋内運動場、温水プール、高さ30mの展望搭も備えている複合型文化施設。 ここにあった広報誌を見てびっくりした。 放射能に関して素晴らしいなど称賛する子供が描いた絵葉書を募集して掲載していた。 やらせなのか洗脳なのかと思うほどだった。 二階の図書室には大間や佐井の郷土史、原発関係の本なども並んでいた。 広瀬隆さんの著書もあった。 そこで参考になりそうな本をみんなで探す。 渡辺満久先生の講義で、大間周辺には断層があり、地面が隆起したとされている。 地層をみればそれがわかる場所がある。 表面の土を薄く削り取ると、くっきりと地層の違いが表れる場所があるので、それを若手がやってみた。いくら削っても同じ地層。 「あれー、この前満久先生と来た時はすぐに地層の違いが出てきたのにー」 場所を変えてやってみると、出ました。上が薄く下が濃い色の地層が。 そして、本州最北端の大間崎へ向かう。 大間崎ではいかのぽんぽん焼き、殻つきウニ、まぐろののどの焼いたものなど、たくさんのおいしそうなものが売られていた。 みんなそれぞれこの地ならではのものを堪能していた。 わたしもいかを食べた。 少し干したイカを炭火で焼き、タレをつけたもので、それはそれはおいしかった。 原発ができたらこんなおいしいものも食べられなくなるんだよーと河合さんは言った。 […]