2012年9月26日。
前日から急に寒くなった十勝。
函館へ車を走らせる。
二日前に私が大好きな二十世紀が両親から送られてきた。
お土産にそれを車に積んだ。
夕方にこなひき小屋の親方宅に寄った。
新しいうちに梨を食べてもらいたかったので。
おかみさんが帰ってくるまで親方と話す。
20:00 野村家着。
ビール、ワイン、日本酒などを飲みながら、野村さんの手料理をいただく。
久しぶりだったので、二人で明け方まで話し込んでしまう。
早く寝ようと言い合っているのに、こうなってしまうのだろう。
2012年9月27日。
大間原発訴訟の会学習会『「脱原発基本法」を考える』に参加。
80人くらいの参加者が集まり盛況だった。
青木秀樹弁護士。大間原発訴訟・浜岡原発訴訟の弁護団。
現行の安全審査指針類は何が問題か
~福島第一原発事故は、原発審査指針類を無効にした~
を青木弁護士が話をした。
「脱原発基本法」の制定は大間原発を止める
~法案の成立に向けて、脱原発の国民のうねりを!~
をこの法案を中心になってまとめた海渡弁護士が話をした。
先に希望がもてる話だった。
かいつまんで内容を記します。
原発推進は国策。
だからこそ国策として脱原発を宣言することが必要ということで、法律を制定しようということ。
脱原発基本法案には前文のようなものがあり、これがなかなか格調高い。
この法案は103人の国会議員の賛成をとりつけ、国会に提出され、現在衆議院で継続審議になっているそうだ。
このことについて海渡弁護士はひとしきり想いを語った。
1986年4月のチェルノブイリ原発事故後にも日本で反原発運動が高揚し、
1988年4月の「原発止めよう!一万人行動」には2万人が集まり銀座をパレードした。
集会では高木仁三郎氏が「脱原発法制定運動」を提案し、
請願署名と超党派の議員立法によって脱原発法の制定を目指すことになった。
この当時駆け出しだった海渡弁護士も署名運動や法案の策定作業に関わった。
350万人の署名が国会に提出され、法案も公表されたが、国会提出までには至らなかった。
このことは、関わった人それぞれに相当大きな痛手を与えた。
高木さんはウツ病になってしまったという。
この9月7日に国会に提出できたことは、海渡さんにとっても色々な思いがあるそうだ。
法案の中で、脱原発は遅くとも2020年度ないし2025年度までのできる限り早い時期に実現されなければならないことを基本としてある。
ただちに脱原発を主張する人も少なからずいて、これには喧々諤々賛否両論あったそうだ。
ただ、前と同じことにならないように、国会に法案を提出し、制定に向けて動いていくには、
なるべく多くの国会議員を取り込まなくてはいけないということで、
脱原発の時期として、社民党は7年、民主党は10年など、各党ばらつきがあるため、それを網羅した年数にしたということだった。
なぜこの法案を急いでつくったかというと、
いつかはわからないけれど、もうすぐ衆議院の総選挙がある。
その時に、脱原発法の賛否を最大の争点にして、脱原発法に賛成の議員を選ぶことができるからだった。
「脱原発法を制定しようという」丸くてかわいいイラストのマークをつくり、
このステッカーを選挙のポスターに張ることで、一目瞭然で賛成の候補者がわかるようにしようということも考えているとのこと。
原発を止めるためには、あらゆるできることをしようということで、五つの方法ということを掲げている。
法案制定は原発を止める一つの方法にすぎないというスタンス。
この法案が制定されたら、大間原発ももちろんやめられる。
その前に国として原発をやめるという意志を宣言するために、
私たちは国会議員を選ばなくいてはいけないのだ。
学習会が終わった後、私は海渡先生に質問をした。
「原発を止めた後のこと、特に立地町村の雇用や経済のことをどう考えているのですか?」と。
そのことも含めてエネルギーのことなども考えているとのこと。
学習会終了後、お寿司屋さんでみんなで交流会。
明日は7回目の大間原発の裁判だ。
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