風のたより その85 交流会
大間訴訟の会の竹田代表
裁判の後、会場を移して原告と弁護団の交流会。
河合先生が飯館村の歌を歌った。
私はもっぱら飲んでしゃべった。
弁護団
原子力資料情報室の澤井さん。
大間訴訟の会の竹田代表
裁判の後、会場を移して原告と弁護団の交流会。
河合先生が飯館村の歌を歌った。
私はもっぱら飲んでしゃべった。
弁護団
原子力資料情報室の澤井さん。
2013年6月6日。
久しぶりの函館。
私の撮影は終わったが、大間原発はまだ建設中。
電源開発(Jパワー)は大間原発を稼働させようとしている。
知れば知るほど、大間原発はありえないと私は思った。
止めるための一つの方法が裁判だと思っている。
今回私は初めてキャメラを持たず、裁判に参加した。
ああ、撮影がないと本当に楽ちんだなあなどと思っていたら、
裁判前の集会はのっけから緊迫してエキサイティングだった。
森越清彦弁護士
森越弁護士が今回の裁判についての裁判官とのやりとりを報告。
今までの裁判で毎回行っていた原告による意見陳述をやめて、裁判の節目ごとにやるようにと裁判所側が言ってきた。
そこで森越弁護士は、では準備書面という形で読み上げるようにしたいと言ったが、
これもダメだと言われた。
裁判直前、原告代理人と裁判官が意見陳述をめぐって決裂した。
そこで、裁判本番で原告による準備書面読み上げを却下された場合は、
「なぜ原告の意見を聞いてくれないのですか」と
傍聴に入った原告たちで異議を叫ぼうという話になった。
河合弘之弁護士
口頭弁論という名の通り、口頭で裁判をやるのが基本。
しかし、書面のやり取りだけで終わる裁判がほとんどなのが実情。
特に原発裁判という、社会的に大きな影響のある裁判である。
傍聴人に何をやっているのかわからない裁判では公開でやる意味がない。
というようなことを河合弁護士が補足した。
よーし、異議あり―!って大声で言うぞー。
と、いつもの裁判と違ってみんな高揚していた。
荒れる裁判になるのか。
山田あゆみさんもコウサクをつれてやってきた。
裁判所にて傍聴券の抽選。
私は初めて当たった。
法廷の中はいつものように満杯。
葛西秀和弁護士によるプレゼンテーションは「大間原発敷地の活断層と敷地地盤について」 。
パワーポイントを使ってわかりやすい説明。
そしていよいよ、原告による準備書面の読み上げをと、
森越弁護士が心なしか緊張気味に言った。
「はいどうぞ」と裁判長はあっさりと言った。
あれれ・・・
佐藤美佳子さん
弘前市の佐藤美佳子さんが意見陳述を行った。
大間産や函館産の昆布も販売している自然食品店を経営していて、
熊谷あさ子さんとも交流があった方だった。
素晴らしい陳述だった。
佐藤さんも、裁判前にもしかしたら読み上げられないかもしれないと言われていたので、ドキドキしていたそうだ。
いつものように被告側は一言も発せず、
あっさりと裁判は終わった。
裁判後の報告会。
弁護士たちは興奮気味だった。
荒れる裁判になると思いきや、土壇場で裁判所側が変わった。
裁判直前の代理人の働きかけが効いたのではのではないかという説明だった。
中野典宏弁護士も山梨からやってきた。
大間在住の奥本さん。
奥本さんは 大間の現状を話してくれた。
2013年5月に入って色んな動きが目に入るようになった。
佐井には東芝の宿舎、大間には日立・三菱などの宿舎、風間には熊谷・大成などの宿舎がある。
現在は佐井を除いて宿舎はカラになっている。
大間では6月からマグロ漁が始まるのだが、今年は海水温が低くてまだ始まっていない。
全般的に漁はよくない。
炉心から半径3キロ以内に大間の町の全てが入るので、オフサイトセンターを佐井町に誘致したいと町長が表明したこと。
今の開発センターの前に新しい大間町役場を建てることが決まったこと。
内山弁護士。
海渡弁護士
只野弁護士
そんなこんなで10回目の裁判は終わった。
第10回大間原発裁判が6月6日 (木) 午後2時30分から函館地方裁判所で開かれます。
私も傍聴に行きます。
今年も大間で6回目の大マグロックフェスティバルが開催されます。
私も参加します。
2013年6月14日(土)・15日(日)
大間原発敷地隣接共有地にて
詳しくは、下記のパザールバザールのブログに紹介されています。
先日3月15日の大間原発裁判の野村保子さんの意見陳述をアップさせていただきます。
意 見 陳 述
私は「大間原発訴訟の会」で運営委員をしています。
私は訴状第10章、第11章に関連して意見を述べます。
大間原発に反対してきて20年以上になります。
私が原発に関心を持ったのは1986年です。
その頃私は、家族に安全で美味しい野菜を食べてもらいたいと無農薬野菜と無添加食品の共同購入をしていました。
そのときの仲間の一人が訴訟の会代表の竹田とし子さんです。
添加物の怖さを知り、農薬や環境問題の勉強をしていたとき、旧ソ連のチェルノブイリ原発で事故が起きました。
1986年4月26日、チェルノブイリ原発は暴走して爆発し、国際原子力事象尺度でレベル7の事故を起こしました。
広島原爆の約800倍の放射性物質が北半球全体に広がり、8000キロ以上離れた日本にも放射能が飛んで来ました。
無農薬野菜は野菜を作る前に土を作ります。
農薬を使わず手で雑草をとり何年もかけて作った堆肥をすき入れて丁寧に育てた土が、
たった1度の放射能で取り返しのつかない惨事になることをチェルノブイリは教えてくれました。
日本に飛んで来た放射能が母乳に含まれていたことが発表され、日本中のお母さんが恐怖の中につき落とされました。
また輸入されたイタリア産スパゲッティやブルガリア産のイチゴジャムなどから放射能が検出され、大騒ぎになりました。
放射能に汚染された食品が私たちの暮らしの中に入って来る恐さです。
今、福島原発からの放射能汚染が問題になっていますが、
原発が事故を起こしたら暮らしが立ち行かなくなることをチェルノブイリで学んだはずです。
その放射能を今、日本が世界にまき散らしているのです。
その後、市民グループが開く講演会で、高木仁三郎さんや広瀬隆さんのお話を聞き、原発と核の怖さを勉強させていただきました。
そんなとき対岸の大間原発の建設計画を知り「ストップ大間原発南北海道」の立ち上げに参加しました。
ここ函館から、晴れた日には津軽海峡を挟んで大間が見えます。
「こんなに近いところに原発ができるんだ」と思いました。
函館空港と函館駅をつなぐ「漁り火通り」は、津軽海峡沿いにあり、夜にはイカ釣りの漁り火が瞬く美しい光景が見られます。
通勤でその道を通る度に、建設途中の大間原発にMOX燃料が入ったら、
あそこにプルトニウムが存在する、その恐怖をいつも感じていました。
また、大間原発は冷却のために海水を必要とします。
その海水を7度も上げて、1秒間に91トンの温排水として津軽海峡に流します。
大間のマグロ、函館のイカなど味覚の宝庫、津軽海峡が汚されてしまうのです。
5月から7月にかけて津軽海峡は霧が立ちこめ、函館でも前が見えなくなるほどの濃い霧になることがよくあります。
2008年7月6日、青森朝日放送のチャーターしたヘリコプターが、青森県大間崎沖で行方不明になりました。
翌々日、大間崎沖に墜落していたことがわかり、4人の方が亡くなられました。
ヘリコプターは濃い霧の中で方向感覚を失い正常な飛行ルートから外れていたことがレーダーから分かりました。
もし先の見えない濃霧の中で、ヘリが完成した大間原発に突っ込こむなどということがあれば大惨事です。
一瞬のうちに原子炉の破壊とヘリコプターの燃料による火災が起き、
こわれた炉心から放射性物質が環境に放出されます。
また、国際海峡である津軽海峡は外国船が多く航行します。
プルトニウム燃料を積んだ船が衝突事故などでプルトニウムごと津軽海峡に沈んだら放射性物質は海から世界にばらまかれます。
下北半島の大間町から130キロメーターの距離にある三沢には米軍基地があります。
基地では緊急発進の訓練が日常的に行われています。
2012年、昨年の7月22日、三沢基地から飛び立った米軍のF16が北海道沖に墜落しました。
三沢基地周辺では自衛隊、及び米軍の墜落事故や不時着事故が多発しています。
原発事故が起きる可能性も含めて、気象条件や飛行機事故など、いつ原発に何が起きるのか不安な日々をおくるなんてどうしても嫌だ、
子ども達の未来を奪う原発を建てさせたくないと強く思うようになりました。
勉強のために講演会を開き、函館とその近郊から市民視察団を集めて大間町の原発敷地を見学するなどの活動をしてきました。
しかし、とうとう2008年4月、大間原発建設許可が出されました。
2010年7月28日、大間原発を止める訴訟を起こしました。
私は訴状の第10章の第2を担当させていただきました。
「原発解体の問題点」と題して、原発から出る放射性廃物と廃炉の問題を取り上げました。
廃炉について勉強すればするほど、大きな問題があることを知りました。
原発は40年の運転期間を終えても、核燃料は熱を持ち続けています。
それを冷却し続けなければ原発は自ら壊れてしまいます。
仮に2016年に大間原発が出来、何事もなく40年の寿命を終えたとして
2056年に原発は解体となります。
しかし、膨大な放射性物質により汚染された原発は、12年から15年の時間をかけて、
放射能濃度が下がるのを待たなくては解体作業を始められません。
2056年から12年目、2068年から解体に取りかかります。
この法廷で2068年に生きている人はいるでしょうか?
多分ほとんどの人がいないでしょう。
それでは、誰が解体の責任を負うのでしょうか?
私の子ども、その子ども、あなたの子どもやその子どもたちです。
日本にある54基の原発には使用済み核燃料が溜まり続けています。
ほとんどの原発で貯蔵施設が満杯になる時期が近づいています。
これ以上ゴミがたまり続けると原発の運転が出来なくなると明言する原発推進派もいます。
原発から出てくる使用済み核燃料は六ヶ所村にある再処理工場に運ばれることになっていますが、
六ヶ所もまた数年で溢れてしまいます。
溢れ出る原発からのゴミを処理するところは日本中どこにもないのです。
国からは調査だけでもさせて欲しいと億単位のお金が示されています。
2002年から候補地の公募をしていますが、2011年現在どこも手を挙げていません。
ということは原発から出たゴミはそのまま原発立地地点に積まれて行くのです。
行き場のないゴミと放射能に汚染された大間原発は津軽海峡の対岸にほぼ永遠に残るのです。
電気を作り、その恩恵を享受した私たちは死に絶え、未来の子ども達がその後始末をさせられるのです。
このことが私はどうしても許せません。
この時代に生きた私たちは少なくとも、原発の後始末の道筋くらいつくらなくてはいけません。
しかも大間原発は、人間が作り出した最悪の物質、プルトニウムとウランを混ぜて燃やします。
大間原発から出る使用済み核燃料は、六ヶ所村に建設中の再処理工場では処理することが出来ません。
第2再処理工場で処理することになっていますが、まだ建設許可が出ただけです。
大間町に住む約6500人の住民、函館とその近郊に住む38万人の人達は、今これ以上の電気を必要としているでしょうか?
そうでないとするならば、なぜ、大間原発は作られるのでしょうか?
六ヶ所再処理工場で作られるプルトニウムを日本国内に貯めておけずに、消費するためと言われています。
大間原発で作られた電気は、東京電力を始め全国の電力会社が使う契約になっています。
全国の原発から出る使用済み核燃料を再処理して出来るプルトニウムの責任を9電力が引き受けるのです。
20年を超える年月と3兆円に届く予算を使って、未だに試運転でつまずいている六ヶ所再処理工場。
そこからまともにできるかどうかも分からないプルトニウムのために、こんなに危険な大間原発を作るのは大きな間違いです。
知人の息子さんは福島原発事故以降、埼玉県から北海道、関西へと避難の旅を続けました。
高校生活も残り1年になった昨年3月、残りの高校生活を郡山で過ごすと聞いた時、
放射線量の高い福島県にどうしても戻って欲しくないと強く思いました。
おせっかいと知りながら、その男の子に福島から離れて欲しくて、何度も話しました。
そのために出来ることをするからと。何度かの話し合いの末、彼は最後に静かに、本当に静かに言ったのです。
「去年の3月にたくさん被曝してしまった。どうせ長くは生きられないから自分の好きなようにするよ」。
この言葉の前に私はもう、何も言うことは出来ませんでした。
福島原発からはいまも放射能が出続け、福島県からは16万人とも言われる人たちが避難しています。
福島を離れることが出来ない人も、遠く離れた人も、故郷をなくしてしまったことに変わりありません。
例えようのない苦しみの中にあるとき、昨年5月5日、定期点検で日本の原発はすべて止まりました。
原発の作った電気のない暮らしがこんなに気持ちよかったのかと改めて思いました。
こどもの日に本当にささやかな子どもたちへの償いのように感じました。
でも、作り出した原発のゴミは消えません。
新しい命を前に、54基もの原発を作り出してしまった大人の一人である自分を痛感しました。
これから生きるたくさんの子ども達に汚染された世界と原発のゴミを残してしまった。
この後悔は新しい原発の建設を止めて、これまで出来た原発を廃炉にし、放射能の影響を最小限にすることでしか償えないものです。
どうぞ裁判官の皆様、たくさんの未来をつくる子ども達のことを思い、放射能が作る恐怖から子ども達を少しでも解放してください。
それが私たち、大人に出来る最善のことと信じます。
私の陳述を終わります。