先日3月15日の大間原発裁判の野村保子さんの意見陳述をアップさせていただきます。
意 見 陳 述
私は「大間原発訴訟の会」で運営委員をしています。
私は訴状第10章、第11章に関連して意見を述べます。
大間原発に反対してきて20年以上になります。
私が原発に関心を持ったのは1986年です。
その頃私は、家族に安全で美味しい野菜を食べてもらいたいと無農薬野菜と無添加食品の共同購入をしていました。
そのときの仲間の一人が訴訟の会代表の竹田とし子さんです。
添加物の怖さを知り、農薬や環境問題の勉強をしていたとき、旧ソ連のチェルノブイリ原発で事故が起きました。
1986年4月26日、チェルノブイリ原発は暴走して爆発し、国際原子力事象尺度でレベル7の事故を起こしました。
広島原爆の約800倍の放射性物質が北半球全体に広がり、8000キロ以上離れた日本にも放射能が飛んで来ました。
無農薬野菜は野菜を作る前に土を作ります。
農薬を使わず手で雑草をとり何年もかけて作った堆肥をすき入れて丁寧に育てた土が、
たった1度の放射能で取り返しのつかない惨事になることをチェルノブイリは教えてくれました。
日本に飛んで来た放射能が母乳に含まれていたことが発表され、日本中のお母さんが恐怖の中につき落とされました。
また輸入されたイタリア産スパゲッティやブルガリア産のイチゴジャムなどから放射能が検出され、大騒ぎになりました。
放射能に汚染された食品が私たちの暮らしの中に入って来る恐さです。
今、福島原発からの放射能汚染が問題になっていますが、
原発が事故を起こしたら暮らしが立ち行かなくなることをチェルノブイリで学んだはずです。
その放射能を今、日本が世界にまき散らしているのです。
その後、市民グループが開く講演会で、高木仁三郎さんや広瀬隆さんのお話を聞き、原発と核の怖さを勉強させていただきました。
そんなとき対岸の大間原発の建設計画を知り「ストップ大間原発南北海道」の立ち上げに参加しました。
ここ函館から、晴れた日には津軽海峡を挟んで大間が見えます。
「こんなに近いところに原発ができるんだ」と思いました。
函館空港と函館駅をつなぐ「漁り火通り」は、津軽海峡沿いにあり、夜にはイカ釣りの漁り火が瞬く美しい光景が見られます。
通勤でその道を通る度に、建設途中の大間原発にMOX燃料が入ったら、
あそこにプルトニウムが存在する、その恐怖をいつも感じていました。
また、大間原発は冷却のために海水を必要とします。
その海水を7度も上げて、1秒間に91トンの温排水として津軽海峡に流します。
大間のマグロ、函館のイカなど味覚の宝庫、津軽海峡が汚されてしまうのです。
5月から7月にかけて津軽海峡は霧が立ちこめ、函館でも前が見えなくなるほどの濃い霧になることがよくあります。
2008年7月6日、青森朝日放送のチャーターしたヘリコプターが、青森県大間崎沖で行方不明になりました。
翌々日、大間崎沖に墜落していたことがわかり、4人の方が亡くなられました。
ヘリコプターは濃い霧の中で方向感覚を失い正常な飛行ルートから外れていたことがレーダーから分かりました。
もし先の見えない濃霧の中で、ヘリが完成した大間原発に突っ込こむなどということがあれば大惨事です。
一瞬のうちに原子炉の破壊とヘリコプターの燃料による火災が起き、
こわれた炉心から放射性物質が環境に放出されます。
また、国際海峡である津軽海峡は外国船が多く航行します。
プルトニウム燃料を積んだ船が衝突事故などでプルトニウムごと津軽海峡に沈んだら放射性物質は海から世界にばらまかれます。
下北半島の大間町から130キロメーターの距離にある三沢には米軍基地があります。
基地では緊急発進の訓練が日常的に行われています。
2012年、昨年の7月22日、三沢基地から飛び立った米軍のF16が北海道沖に墜落しました。
三沢基地周辺では自衛隊、及び米軍の墜落事故や不時着事故が多発しています。
原発事故が起きる可能性も含めて、気象条件や飛行機事故など、いつ原発に何が起きるのか不安な日々をおくるなんてどうしても嫌だ、
子ども達の未来を奪う原発を建てさせたくないと強く思うようになりました。
勉強のために講演会を開き、函館とその近郊から市民視察団を集めて大間町の原発敷地を見学するなどの活動をしてきました。
しかし、とうとう2008年4月、大間原発建設許可が出されました。
2010年7月28日、大間原発を止める訴訟を起こしました。
私は訴状の第10章の第2を担当させていただきました。
「原発解体の問題点」と題して、原発から出る放射性廃物と廃炉の問題を取り上げました。
廃炉について勉強すればするほど、大きな問題があることを知りました。
原発は40年の運転期間を終えても、核燃料は熱を持ち続けています。
それを冷却し続けなければ原発は自ら壊れてしまいます。
仮に2016年に大間原発が出来、何事もなく40年の寿命を終えたとして
2056年に原発は解体となります。
しかし、膨大な放射性物質により汚染された原発は、12年から15年の時間をかけて、
放射能濃度が下がるのを待たなくては解体作業を始められません。
2056年から12年目、2068年から解体に取りかかります。
この法廷で2068年に生きている人はいるでしょうか?
多分ほとんどの人がいないでしょう。
それでは、誰が解体の責任を負うのでしょうか?
私の子ども、その子ども、あなたの子どもやその子どもたちです。
日本にある54基の原発には使用済み核燃料が溜まり続けています。
ほとんどの原発で貯蔵施設が満杯になる時期が近づいています。
これ以上ゴミがたまり続けると原発の運転が出来なくなると明言する原発推進派もいます。
原発から出てくる使用済み核燃料は六ヶ所村にある再処理工場に運ばれることになっていますが、
六ヶ所もまた数年で溢れてしまいます。
溢れ出る原発からのゴミを処理するところは日本中どこにもないのです。
国からは調査だけでもさせて欲しいと億単位のお金が示されています。
2002年から候補地の公募をしていますが、2011年現在どこも手を挙げていません。
ということは原発から出たゴミはそのまま原発立地地点に積まれて行くのです。
行き場のないゴミと放射能に汚染された大間原発は津軽海峡の対岸にほぼ永遠に残るのです。
電気を作り、その恩恵を享受した私たちは死に絶え、未来の子ども達がその後始末をさせられるのです。
このことが私はどうしても許せません。
この時代に生きた私たちは少なくとも、原発の後始末の道筋くらいつくらなくてはいけません。
しかも大間原発は、人間が作り出した最悪の物質、プルトニウムとウランを混ぜて燃やします。
大間原発から出る使用済み核燃料は、六ヶ所村に建設中の再処理工場では処理することが出来ません。
第2再処理工場で処理することになっていますが、まだ建設許可が出ただけです。
大間町に住む約6500人の住民、函館とその近郊に住む38万人の人達は、今これ以上の電気を必要としているでしょうか?
そうでないとするならば、なぜ、大間原発は作られるのでしょうか?
六ヶ所再処理工場で作られるプルトニウムを日本国内に貯めておけずに、消費するためと言われています。
大間原発で作られた電気は、東京電力を始め全国の電力会社が使う契約になっています。
全国の原発から出る使用済み核燃料を再処理して出来るプルトニウムの責任を9電力が引き受けるのです。
20年を超える年月と3兆円に届く予算を使って、未だに試運転でつまずいている六ヶ所再処理工場。
そこからまともにできるかどうかも分からないプルトニウムのために、こんなに危険な大間原発を作るのは大きな間違いです。
知人の息子さんは福島原発事故以降、埼玉県から北海道、関西へと避難の旅を続けました。
高校生活も残り1年になった昨年3月、残りの高校生活を郡山で過ごすと聞いた時、
放射線量の高い福島県にどうしても戻って欲しくないと強く思いました。
おせっかいと知りながら、その男の子に福島から離れて欲しくて、何度も話しました。
そのために出来ることをするからと。何度かの話し合いの末、彼は最後に静かに、本当に静かに言ったのです。
「去年の3月にたくさん被曝してしまった。どうせ長くは生きられないから自分の好きなようにするよ」。
この言葉の前に私はもう、何も言うことは出来ませんでした。
福島原発からはいまも放射能が出続け、福島県からは16万人とも言われる人たちが避難しています。
福島を離れることが出来ない人も、遠く離れた人も、故郷をなくしてしまったことに変わりありません。
例えようのない苦しみの中にあるとき、昨年5月5日、定期点検で日本の原発はすべて止まりました。
原発の作った電気のない暮らしがこんなに気持ちよかったのかと改めて思いました。
こどもの日に本当にささやかな子どもたちへの償いのように感じました。
でも、作り出した原発のゴミは消えません。
新しい命を前に、54基もの原発を作り出してしまった大人の一人である自分を痛感しました。
これから生きるたくさんの子ども達に汚染された世界と原発のゴミを残してしまった。
この後悔は新しい原発の建設を止めて、これまで出来た原発を廃炉にし、放射能の影響を最小限にすることでしか償えないものです。
どうぞ裁判官の皆様、たくさんの未来をつくる子ども達のことを思い、放射能が作る恐怖から子ども達を少しでも解放してください。
それが私たち、大人に出来る最善のことと信じます。
私の陳述を終わります。
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