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撮影報告 その89 ブルーベリーフィールズ紀伊國屋にて

 

2011年12月26日。

雪が降っていた。

長靴をはいて、奥田さんとブルーベリーフィールズ紀伊國屋にランチへ。

南へ下ると雪もなく、お日様が顔を出していた。

ブルーベリーフィールズ紀伊國屋
この日が今年最後の営業日だった。

ブルーベリーフィールズ紀伊國屋は山の上にある。ここは少し雪がつもっていた。私はランチでワインを飲みたかったので、奥田さんに運転してもらうことにした。

雪の琵琶湖も素晴らしかった。この風景を眺めながらのランチは、本当にぜいたくだと思う。

雲がかかったり、晴れたり、雪が降ったり…。目まぐるしく天候が変わっていく。そんな変化も楽しみながら、おいしくランチをいただいた。

前菜。

食後のフレッシュハーブティーがこれまた何ともいえずおいしかった。

いのちのスープ。


14:00。岩田康子さんがやってきた。(ブルーベリーフィールズ紀伊國屋の社長)そして3人で話をした。

左から、岩田康子さん、私、奥田好香さん。

彼女は3.11以降、自分に何かできないかいつも考え行動している。

今、着物を集めて被災地に送り、それを手仕事でリフォームしてもらい、販売していけるようにならないかと考えワクワクしていた。この話を私たちにしたかったのだろう、彼女は一気に話をした。

想い出のある着物を手放す。それを被災地の女性たちが、違う形のものにリフォームする。それを大きな店ではなく、人から人へ販売する。そうすることで、被災地の人たちの小さな喜びや希望につながるように、そして私たちも被災地の人たちに想いを馳せられるように。そんなことを彼女は考えてワクワクしているようだ。

ブルーベリー。

2時間ほど話し、「続きは今度田代さんが滋賀に来た時にね。」と言って別れた。

 

彦根に帰る途中、大中の愛菜館に寄る。今までいいお天気だったのにここは吹雪だった。野菜を買う。根菜類は北海道に持って帰られるからと、ゴボウやきんとき人参などを奥田さんが買ってくれた。

 

愛菜館。

 

各地の映画上映が縁で知り合った人たちと、それが縁でつながってきた。そして3.11が起こったことでまた違う関わりが始まっている。

その人たちと会ってから今までの短い間に、私にも、知り合った人たちにも、それぞれの時間が流れていることを感じずにはいられない。当たり前のことなのだけど。これが、生きているということなのだろう。

撮影報告 その88 井戸謙一さん 彦根にて

井戸謙一さん。

 

2011年12月25日。

朝、窓の外は雪景色だった。

今日は午後からいよいよ井戸さんのインタビューだ。初めてお会いする方にお話を聞くというのは、心の準備がいる。何をどうお聞きするか。

彦根城

 

 

昨日は久しぶりに少しゆっくり過ごした日であったが、急きょ取り寄せた「原発訴訟」(海渡雄一著・岩波新書)、「脱原発」(河合弘之、大下英治著・青志社)を読んだり、頭の中はいつも明日の井戸さんへの質問を考え、ノートに書いたりシュミレーションしたりしていた。

 

昼、機材を車に運び込み、撮影の準備を整え、彦根城近くの「朴」にランチを食べに行く。風強し。お堀の水が波打っていた。

朴のランチは相変わらずおいしかった。

 

 

12:50。井戸さんが勤める法律事務所へ向かう。井戸さんは笑顔で迎えてくれた。私は一気に親しみがわいた。日曜日の法律事務所には井戸さんしかいなかった。

キャメラをセッティングしながら、今回の撮影の動機などを話し、早速撮影を開始。私は井戸さんにお聞きしたいことがたくさんあった。

 

2011年3月11日、井戸さんは大阪高裁で裁判官をしていた時、地震にあった。建物の13階にいたので大きな揺れだった。その時一番に女川原発を心配したという。その後福島第一原発の事故を知り、これからどう生きていくか、しっかり考えなくてはと、家族全員に電話をしたという。井戸さんにとってそれほどのことだったのだ。

 

井戸さんは東京大学文学部に在籍しながら法律の勉強をして司法試験に合格。元々ジャーナリズムに興味があり、弁護士志望だった。しかし修習生の時に最後に判断を下せる裁判官になろうと決めた。それから裁判官を30年以上勤めた。

2002年(平成14年)金沢地裁へ移動になった。その時から志賀原発2号機の運転差し止め裁判を担当することがわかっていた。1999年(平成11年)にその裁判が始まっていた。金沢地裁は裁判官の人数が少ない。金沢への移動は、その案件を引き継ぐことになると初めからわかっていた。金沢地裁はもう一つ大きな事件を抱えていた。自衛隊・小松基地の騒音問題だ。人数の少ない裁判所で大きな事件を2つ抱えていた裁判所だった。

 

今までの原発裁判では、原告が危険性を立証すべきという枠組みで考えられてきた。それをこの裁判で井戸さんは、被告が安全であることを立証するべきというスタンスをとった。

 

志賀原発2号機の運転差し止め裁判は、被告の北陸電力が行政庁による許可を得ていることを安全性立証の要として主張したため、国の行っている原発の耐震設計の適否が争点となった。

 

そして井戸さんは、2006年3月24日に志賀原発2号機運転差し止めの判決を下した。

判決は審議が終わってからわりと早くに決まったという。判決を下した後の反響など、その時は何も考えていなかった。ただ法にしたがって判断すべきことをしただけだった。しかし、判決を言い渡す日が近づくにつれて、色々なことを考えてしまったそうだ。それでも、判決文を書いてそれを詰めていくうちに、これで何を言われようとも自分たちはこう判断したのだからと思えるようになって落ち着いてきた。

判決を下してからの反響は大きかった。賛否両論。それはどんな時も当たり前のことだと井戸さんは言った。

 

阪神・淡路大震災後、原子力安全委員会は2001年に指針見直しの作業を始めた。これに時間がかかり、金沢地裁での運転差し止めの判決が出た後、2006年9月に新耐震設計審査指針が制定された。これに基づき耐震安全性に再評価が実施された。それから、この裁判は高裁と最高裁で原告が敗訴する。

 

 

井戸さんは、1954年(昭和29年)、初めて原子力に国が予算をつけた年に生まれた。そして1979年(昭和54年)アメリカ・スリーマイルの原発事故の年に裁判官になった。

裁判官をやめて、もともと志望していた弁護士になろうと思った今年、2011年、福島第一原発事故が起こった。これによって井戸さんの弁護士人生が変わった。

裁判官をやめて3月から弁護士になった。今は原発関係の講演や取材が3分の一、原発関係の裁判が3分の一、普通の弁護士としての仕事が3分の一という感じで仕事をしているという。

このようになってから、今まで絶対に会わなかった人たちと会って話ができる機会が増えてとても面白いと井戸さんは言った。こんな人がいると思うと、世の中捨てたものじゃないと思えると。私もまったく同感。

はからずも原発問題に関わることになった井戸さん。これから少しでもいい社会になるように法律を武器に自分の力を尽くしたいと井戸さんは言った。

このような人が裁判官であってほしいという気持ちがむくむくとわいてきたが、井戸さんは30年以上も裁判官をやってこられた人なのだ。これからは弁護士として、市井に暮らす人たちに寄り添った弁護をしてくださると私は思った。

長いインタビューを終えた。井戸さんは駐車場まで荷物を持ってくれ、見送ってくれた。
井戸さんにまたお会いしたいと思った。今度はお酒でも飲みながら。

井戸さんはふくしま集団疎開訴訟の裁判の弁護団に入っている。大学の先輩である弁護団長の柳原敏夫さんに声をかけられたのだそうだ。
この裁判は、先日2011年12月16日、仮処分申し立てが却下された。

 

この裁判がマスコミにあまり取り上げられないので、ぜひアピールして欲しいと井戸さんは言った。
私はこれから上映や撮影でいくところでこのことを話すようにしようと思う。

 

以下は、弁護団長・柳原敏夫さんの今回の裁判の感想です。
(ふくしま集団疎開訴訟の裁判HPより http://fukusima-sokai.blogspot.com/

今回の決定の骨子は次のようなものです。

① 債権者らは、債権者らを避難させることを求めているが、実質的には、各学校における他の児童生徒の教育活動の差止めを求めているから、その被保全権利の要件は厳格に解する必要がある。

② 現時点で、他の児童生徒の意向を問うことなく、一律に各小中学校の教育活動の実施の差止めをしなければいけないほど、債権者らの生命身体に対する切迫した危険性があるとは認められない。

その理由は、①空間線量が落ち着いてきている、
②除染作業によって更に放射線量が減少することが見込まれる、
③100ミリシーベルト未満の低線量被曝の晩発性障害の発生確率について実証的な裏付けがない、
④文科省通知では年間20ミリシーベルトが暫定的な目安とされた、
⑤区域外通学等の代替手段もあること、等である。

裁判所は、まず、被保全権利がないこと、すなわち、子供たちに切迫した健康被害の危険がないことを理由に、申立を却下しようと考えたのだと思います。しかし、その点だけでは決定理由を書けなかった。

そこで、他の子供達についても避難させようとしているなどということを持ちだして、「被保全権利の要件を厳重に解する必要がある」などということを言い出したのです。
確かに、私たちは、14人の子どもの避難だけではなく、他の子供達の避難も実現したいと思っていました。

しかし、それは、裁判所の決定が出た後の行政交渉で実現できることであって、司法で実現できることではないし、司法判断の対象になるものではないと位置づけていました。個人の権利救済を目的とする民事訴訟手続においては、それは当然のことです。

審理の対象は、申立人の子供たちの健康被害を避けるために、申立人の子供たちを避難させる必要があるかどうかだけなのです。他の子供達に対する事実上の影響の問題を司法判断に持ち込み、厳しい要件を課したのは、民事訴訟の原則に違反するものであると考えます。

100ミリシーベルト以下での低線量被曝のリスクが証明されたとはされていないことや文科省の20ミリシーベルトの判断を理由に子どもの健康のリスクを否定した内容は、結局、行政の判断に追随しているだけであり、司法の役割を全く果たしていないというしかありません。

チェルノブイリでの避難基準との比較、ベラルーシやウクライナの子供たちの現状、福島の明日は今のベラルーシやウクライナであること、多くの子供達が被害を受ける危険があることを、裁判所はどう考えたのでしょうか。

科学的な証明のためには膨大なデータの収集が必要であり、そのためには長い時間がかかります。児玉龍彦東大教授が言っておられるように、科学的に証明できてから対策をとっても遅いのです。

ことは子供たちの生命、健康の問題です。予防原則が徹底されなければなりません。我が国の政府は、国民に対し、年間20ミリシーベルトまでの被曝をさせる意思です。

ウクライナやベラルーシでは、年間5ミリシーベルトを超える地域は強制避難地域とされました。それでも大変な健康被害が生じています。我が国における子供たちの保護が、旧ソ連の各国よりもはるかに劣っていること、そのことを我が国の司法すら安易に追認することに驚きを禁じえません。

司法の仕事は、苦しみの中で救済を求めている市民を救うことであって、市民を苦しめる行政の行為にお墨付きを与えることではありません。

今回の裁判所の決定に対し、私たちは十分に検討の上、今後の道を探りたいと考えます。

撮影報告 その87 土居純一さん 大阪・「こんぶ 土居」にて 

こんぶ 土居の4代目・土居純一さん。

 

2011年12月22日。

朝食。納豆、ご飯、味噌汁、ホウレンソウのおひたし、りんご。

9:00過ぎ。奥田さんに見送られ、彦根を出発。大阪の「こんぶ土居」を目指す。こんぶ土居は、原材料を吟味・厳選し、伝統ある大阪の食文化を守り育て、本物を次代に伝えることが使命だと考えている昆布屋さん。土居さんは、北海道の南茅部の昆布を使って製品にしている。

 

この夏、ここの4代目・土居純一さんが大間原発の話を聞きに北海道の山田農場を訪ねてきた。そして大間へ渡り、奥本さんの案内で大間原発の現場にも行き、六ヶ所も見て大阪に帰ったのだった。私はその話を山田夫妻と奥本さんから聞いてとても感動した。誇りと責任をもって仕事をしているから、現場に立ったのだと思った。関西に行く際にはぜひ土居さんのお話を伺いたいと思い、大間の奥本さんに紹介していただいたのだった。

大阪に入ると車線が増え、車もいっぱいで渋滞。慣れない都会の運転に緊張しながら、ようやく近くまでたどり着く。

からほり商店街

12:20。商店街のアーケードにぶちあたり、それ以上進めなくなる。土居純一さんに電話したら歩いて迎えにきて下さった。とても素敵な人だった。いっしょに車に乗っていただき、お店の駐車場に車を入れた。

こんぶ 土居

商店街の中の一つのお店だが、うまそうなものがありそうな店構えだ。早速店の中に入らせていただき、商品を見させていただいた。どれもおいしそうなものばかりでワクワクした。商品の裏の表示をみると見事に添加物類の表記はなかった。

店はそれほど大きくはなく、売り場の裏で全ての商品を製造しているとのことで驚いた。昆布の選別作業もレジのすぐ後ろでやっている。

「昆布屋は12月が一番忙しいんです。すいませんバタバタしていて。」と純一さんが言った。私はとても恐縮して「いえいえ、こちらこそ師走の忙しい時期に来てしまってすいません。」と言った。

純一さん、3代目の土居成吉さん、そのお連れ合いと従業員の方は5人が総出で働いていた。そんな中、純一さんが仕事を中断して、二階の和室の落ち着いたお部屋で話を聞かせてくれた。

 

自分たちは昆布があるから店かできて生活ができている。その昆布をとる生産者の人も大事であること。何百年も続いている昆布の文化を守ることも自分たちの使命と考えていること。

3代目の成吉さんは、30年以上前から道南の南茅部の浜に通っている。少しずつ漁師さんたちと信頼関係を築いてきて、12年ほど前から毎年秋に南茅部の小学校に食育教育の一環で昆布の話をしにいっている。今では南茅部の高校生が修学旅行でこんぶの土居を訪ねてくるようになったそうだ。

 

純一さんはこんな話をしてくれた。
昭和30年代から40年代にかけて昆布の機械乾燥が始まり質の低下がみられた。それを改善してもらいたくて3代目の成吉さんは浜に通い始めた。当時、昆布を扱う店の者が直接産地に行くことはなかった。買い付けに来たのかと誤解され、冷たく扱われた。しかし根気強く通い、メディアにも取り上げられるようになり生産者の人たちの心が動いていった。という経緯があった。

そして息子の純一さんは9年前から家業を継ぎ、平成16年から毎年昆布漁が解禁になる夏に、南茅部のへ行って漁師さんと寝食を共にして漁をしに行くのだそうだ。そうしてお互いの信頼関係をつくっている。

 

昆布には天然と養殖と促成の3種類がある。昆布は2年で大きくなる。胞子で増えていく。養殖は、胞子を培養して赤ちゃん昆布を育てる。海面にロープを張り、そこに赤ちゃん昆布をくっつける。そうすると、昆布は下に向かって大きくなっていく。天然ものは海底から上に向かって大きくなっていく。

促成昆布とは、赤ちゃん昆布を日照時間と温度でコントロールして育てるもの。この場合は1年でできる。その代わり味はあまりおいしくないそうだ。ただ、柔らかいので、ほとんどのところでは、とろろ昆布として使われる。

大阪の堺は刃物の町だった。かつて昆布加工業者が100軒ほどあったが、現在は2軒になった。とろろ昆布を削るのは、今でも職人さんの手作業で行われているそうだ。これだけは機械でできないとのこと。その職人さんの年がいってきて、とても固い天然昆布を削ることができなくなった。促成昆布の方が柔らかいので削る作業が断然楽なのだ。

固い天然昆布を削る職人さんがいなくなり、土居さんは困った。純一さんは、前に昆布削りの職人さんに弟子入りして、その技術を持っていた。ということで現在、土居さんでは天然昆布を純一さんが削っているのだった。

昆布は産地から送られてきてから2年ほど寝かしてから製品にする。温度や湿度を管理する。そうするとおいしくなる。

昆布屋という仕事への思い、そして原発についての思いをうかがった。自分たちの暮らしに原発は相容れないこと、大間原発が死活問題であることがよくわかった。それは山田農場の圭介さんたちとまったく同じである。

近所のお蕎麦屋さんが原発問題に取り組んでいることもあって、純一さんは3.11の前から原発のことを勉強していた。そして今、原発の是非を問う住民投票を呼びかける活動をはじめた。そのチラシが店のレジの横に置いてあった。

どうしたら原発を止められるか、どうしたら大間を止められるか、大阪に暮らす自分たちに何ができるか、土居さんも考え続けていた。みんな同じことを考えているのだと改めて思った。何かいっしょにできないかなあと私は思った。

こんぶ 土居3代目・土居成吉さん。

純一さんのお話を2時間ほどたっぷりとお聞きして、1階に降りると、3代目・成吉さんが昆布の選別をしていた。純一さんが紹介してくれて、ご挨拶をした。

いわゆる大阪の商人というイメージとはかけ離れた方だった。それは息子の純一さんもだが。穏やかで温かくて、お話しをしていて楽しい方だった。

成吉さんが添加物の話など、選別をしながら話をしてくれたので、「撮影させてもらっていいですか」と伺うとどうぞと言ってくれたので、早速撮影させていただきながらお話を伺った。

昆布の選別をする純一さん。

 

それから、純一さんが交代して選別の仕事をはじめた。そしてそこでも話をしながら仕事を撮らせていただいた。

 

 

 

裏の製品をつくっているところも撮影させていただく。昆布の佃煮をパックにつめているところ、だしをつくっているところなどを撮らせていただく。

 

そしてまた二階に上がり、成吉さんがコーヒーを落としてくれて、美味しいお菓子といっしょにいただいた。とってもおいしいコーヒーブレイクでホッ一息ついた。ここで映画の話、原発、料理など様々な話をした。

私は今晩大阪に泊まることにしていたので、晩御飯にお勧めの店を教えて欲しいと純一さんにお願いしていた。晩御飯の話になった時、成吉さんが、「ここの近くの中華の店がいいのではないかな。」と言った。純一さんも「僕もそう思っていました。田代さんに合うと思う。」と言った。そして、自分が仕事を変わるから、一緒に田代さんと食べてきたらいいと成吉さんは言い、すぐに店に電話をかけて二人の席の予約を入れてくれた。「北海道から大事なお客さんがきていて・・・」と言ってくださっていたのには大変恐縮した。一年で一番忙しい時期に、時間を割いていただいてしかも食事まで一緒に付き合ってくれるなんて…。

18:00。仕事をまたもや中断して、純一さんと二人で歩いてお店に向かった。商店街の筋から外れたところにその店はあった。純一さんが通っていた小学校の前だった。今この学校は少子化でなくなったそうだが、グランドに小学校の面影が残っていた。

前菜。

初めて出会った中華料理だった。ちょこっとずつ、色々な種類のものが出てきて、どれもこれも目にも美しくそしておいしかった。デザートはゆずのゼリー。さっぱりと食事を終えた。こんなお料理なら毎日でも食べられると思った。

食べながら、また純一さんといろんな話をして本当に楽しかった。

店に戻ると閉店はしていたがまだ、総出で働いていた。私は好物の塩昆布、ちりめん山椒を買った。そして今夜の宿探していただき、純一さんに宿まで送っていただく。成吉さんは外まで出て見送ってくれた。昆布、出汁などお土産までいただいた。

私は純一さん・成吉さんに出会えてとても嬉しかった。この人の縁ってほんとにありがたいものだと思った。「空想の森」でできた縁を大事にして撮影を進めてきてよかったとしみじみ思った。

9:00。ホテルに入った。間もなく少し酔った野村さんから電話がかかってきた。私も先日少し酔って彼女に電話をかけた。そしてまた長電話。
2011年は野村さんにとっても私にとってもすごい年になった。

撮影報告 その86 井戸謙一さんのインタビュー決まる

夕食の鍋。

 

2011年12月21日。

午前中から事務仕事。

2006年3月24日、金沢地裁で裁判長の井戸謙一さんが志賀原発2号機の運転差し止めを言い渡した。

井戸さんは現在、彦根で弁護士をしている。

 

井戸さんに連絡を連絡をとって、取材・撮影をさせてもらえることになった。

井戸さんは、ふくしま集団疎開裁判の原告の弁護士もしていると、会津若松の片岡輝美さんからのメールで知った。

またまた高揚してきた。

彦根で少しゆっくりしたいと思っていたが、いつものようにスケジュールが詰まってきた。

夕飯は鍋。今日も近江野菜をたくさんいただいた。

明日はいよいよ大阪だ。

撮影報告 その85 堀口あずささん~彦根にて~

 

堀口あずささん。

2011年12月20日。

やっとネット環境があるところに来たので、彦根ではたまった事務仕事をせっせとしている。

奥田さんは近江の冬野菜をたくさん用意してくれていて手料理を食べさせてもらっている。私はまるで実家のようにくつろいでいる。

たねやのランチ

お昼は彦根城の近く朴さんに食べに行くつもりが休みだったので近くの「たねや」へ。一口おまんじゅう、麦飯、ととろ、近江の野菜、など、とてもおいしかった。

 

ずっと海の近くにいたので車を洗車しに行った。

夕方、甲賀の堀口さんが来てくれた。彼女は畑で野菜をつくり、オーガニックカフェで働き、時々ケータリングで料理をつくる人。滋賀県の上映会で色々と手伝ってくれた。師走の忙しい中インタビューを受けてくれることになった。

夕飯は鍋を食べて、そのまま堀口さんも奥田さんの家に泊まっていくことになった。私はこの日をとても楽しみにしていた。堀口さんの料理はとてもおいしいからだ。

堀口さんの野菜。

 

堀口さんは木の箱いっぱいに自分の畑でとれた野菜やきのこを持ってきてくれた。奥田さんも手伝って夕食の支度が始まった。私はここから撮影させてもらった。奥田さんが堀口さんに指導をあおぎながら下準備をする姿がかわいらしかった。堀口さんが料理をする姿は美しかった。

 

豪華な食卓。野菜がおいしかったー!

 

白菜、ネギ、大根、セルべス、ひらたけ、しいたけ、ちじみ菜、出汁は昆布とホタテ。それから天然のエビを軽くフライパンで焼いて、鍋にいれるのと、レアーで食べる用と。このレアーのエビが抜群においしかった。もちきんちゃくの代わりに、いなきびにイモ・たまねぎ・コーンを入れて出しをいれて炊いたものを油揚げにつめたものもとてもおいしかった。

セルべスもスライスして焼き、ごま油と塩を振った。このいもを初めて食べた。とても食感がよく美味しかった。

それからぬかニシンも焼いた。奥田さんが用意してくれた滋賀の酒、富田酒造・七翻槍の生酒をいただきながら、至福の時だった。

左から堀口さん、奥田さん。

 

お鍋がほんとうにおいしかった。薬味がゆずの刻んだものと、しぼったもの、ネギ、みそ、塩などあり、色んな味を楽しんだ。

そして食べながらの話の続きでインタビューを始めた。

3.11は堀口さんにとって衝撃だった。夏には福島の子供たちのサマーキャンプの手伝いに長野に行った。その時、福島の人たちと直に接して、それ以来いつも福島の人たちのことが頭のどこかにある。そして福島の人たち人に寄り添いたいと思ったそうだ。それから、がむしゃらに働いて稼いで、少しでも被災地に。と今は考えている。ゆっくりとやわらかな関西弁で彼女は話してくれた。私はなんだか感動していた。堀口さんのその精神の美しさに。

きっとこの日本は立ち直っていけるはずだと私は思った。

夜中の3時頃まで、堀口さん、奥田さんと3人で語り合った。

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