2011年12月25日。
朝、窓の外は雪景色だった。
今日は午後からいよいよ井戸さんのインタビューだ。
初めてお会いする方にお話を聞くというのは、心の準備がいる。
何をどうお聞きするか。
昨日は久しぶりに少しゆっくり過ごした日であったが、急きょ取り寄せた「原発訴訟」(海渡雄一著・岩波新書)、「脱原発」(河合弘之、大下英治著・青志社)を読んだり、頭の中はいつも明日の井戸さんへの質問を考え、ノートに書いたりシュミレーションしたりしていた。
昼、機材を車に運び込み、撮影の準備を整え、彦根城近くの「朴」にランチを食べに行く。
風強し。
お堀の水が波打っていた。
朴のランチは相変わらずおいしかった。
12:50。井戸さんが勤める法律事務所へ向かう。
井戸さんは笑顔で迎えてくれた。
私は一気に親しみがわいた。
日曜日の法律事務所には井戸さんしかいなかった。
キャメラをセッティングしながら、今回の撮影の動機などを話し、早速撮影を開始。私は井戸さんにお聞きしたいことがたくさんあった。
2011年3月11日、井戸さんは大阪高裁で裁判官をしていた時、地震にあった。建物の13階にいたので大きな揺れだった。
その時一番に女川原発を心配したという。
その後福島第一原発の事故を知り、これからどう生きていくか、しっかり考えなくてはと、家族全員に電話をしたという。
井戸さんにとってそれほどのことだったのだ。
井戸さんは東京大学文学部に在籍しながら法律の勉強をして司法試験に合格。
元々ジャーナリズムに興味があり、弁護士志望だった。
しかし修習生の時に最後に判断を下せる裁判官になろうと決めた。
それから裁判官を30年以上勤めた。
2002年(平成14年)金沢地裁へ移動になった。
その時から志賀原発2号機の運転差し止め裁判を担当することがわかっていた。
1999年(平成11年)にその裁判が始まっていた。
金沢地裁は裁判官の人数が少ない。
金沢への移動は、その案件を引き継ぐことになると初めからわかっていた。
金沢地裁はもう一つ大きな事件を抱えていた。
自衛隊・小松基地の騒音問題だ。
人数の少ない裁判所で大きな事件を2つ抱えていた裁判所だった。
今までの原発裁判では、原告が危険性を立証すべきという枠組みで考えられてきた。
それをこの裁判で井戸さんは、被告が安全であることを立証するべきというスタンスをとった。
志賀原発2号機の運転差し止め裁判は、被告の北陸電力が行政庁による許可を得ていることを安全性立証の要として主張したため、国の行っている原発の耐震設計の適否が争点となった。
そして井戸さんは、2006年3月24日に志賀原発2号機運転差し止めの判決を下した。
判決は審議が終わってからわりと早くに決まったという。判決を下した後の反響など、その時は何も考えていなかった。
ただ法にしたがって判断すべきことをしただけだった。
しかし、判決を言い渡す日が近づくにつれて、色々なことを考えてしまったそうだ。
それでも、判決文を書いてそれを詰めていくうちに、これで何を言われようとも自分たちはこう判断したのだからと思えるようになって落ち着いてきた。
判決を下してからの反響は大きかった。賛否両論。
それはどんな時も当たり前のことだと井戸さんは言った。
阪神・淡路大震災後、原子力安全委員会は2001年に指針見直しの作業を始めた。
これに時間がかかり、金沢地裁での運転差し止めの判決が出た後、2006年9月に新耐震設計審査指針が制定された。
これに基づき耐震安全性に再評価が実施された。
それから、この裁判は高裁と最高裁で原告が敗訴する。
井戸さんは、1954年(昭和29年)、初めて原子力に国が予算をつけた年に生まれた。
そして1979年(昭和54年)アメリカ・スリーマイルの原発事故の年に裁判官になった。
裁判官をやめて、もともと志望していた弁護士になろうと思った今年、2011年、福島第一原発事故が起こった。
これによって井戸さんの弁護士人生が変わった。
裁判官をやめて3月から弁護士になった。
今は原発関係の講演や取材が3分の一、原発関係の裁判が3分の一、普通の弁護士としての仕事が3分の一という感じで仕事をしているという。
このようになってから、今まで絶対に会わなかった人たちと会って話ができる機会が増えてとても面白いと井戸さんは言った。
こんな人がいると思うと、世の中捨てたものじゃないと思えると。私もまったく同感。
はからずも原発問題に関わることになった井戸さん。
これから少しでもいい社会になるように法律を武器に自分の力を尽くしたいと井戸さんは言った。
このような人が裁判官であってほしいという気持ちがむくむくとわいてきたが、井戸さんは30年以上も裁判官をやってこられた人なのだ。これからは弁護士として、市井に暮らす人たちに寄り添った弁護をしてくださると私は思った。
長いインタビューを終えた。井戸さんは駐車場まで荷物を持ってくれ、見送ってくれた。
井戸さんにまたお会いしたいと思った。
今度はお酒でも飲みながら。
井戸さんはふくしま集団疎開訴訟の裁判の弁護団に入っている。
大学の先輩である弁護団長の柳原敏夫さんに声をかけられたのだそうだ。
この裁判は、先日2011年12月16日、仮処分申し立てが却下された。
この裁判がマスコミにあまり取り上げられないので、ぜひアピールして欲しいと井戸さんは言った。
私はこれから上映や撮影でいくところでこのことを話すようにしようと思う。
以下は、弁護団長・柳原敏夫さんの今回の裁判の感想です。
(ふくしま集団疎開訴訟の裁判HPより http://fukusima-sokai.blogspot.com/)
今回の決定の骨子は次のようなものです。
① 債権者らは、債権者らを避難させることを求めているが、
実質的には、各学校における他の児童生徒の教育活動の差止めを求めているから、
その被保全権利の要件は厳格に解する必要がある。
② 現時点で、他の児童生徒の意向を問うことなく、
一律に各小中学校の教育活動の実施の差止めをしなければいけないほど、
債権者らの生命身体に対する切迫した危険性があるとは認められない。
その理由は、①空間線量が落ち着いてきている、
②除染作業によって更に放射線量が減少することが見込まれる、
③100ミリシーベルト未満の低線量被曝の晩発性障害の発生確率について実証的な裏付けがない、
④文科省通知では年間20ミリシーベルトが暫定的な目安とされた、
⑤区域外通学等の代替手段もあること、等である。
裁判所は、まず、被保全権利がないこと、
すなわち、子供たちに切迫した健康被害の危険がないことを理由に、
申立を却下しようと考えたのだと思います。
しかし、その点だけでは決定理由を書けなかった。
そこで、他の子供達についても避難させようとしているなどということを持ちだして、
「被保全権利の要件を厳重に解する必要がある」などということを言い出したのです。
確かに、私たちは、14人の子どもの避難だけではなく、
他の子供達の避難も実現したいと思っていました。
しかし、それは、裁判所の決定が出た後の行政交渉で実現できることであって、
司法で実現できることではないし、司法判断の対象になるものではないと位置づけていました。
個人の権利救済を目的とする民事訴訟手続においては、それは当然のことです。
審理の対象は、申立人の子供たちの健康被害を避けるために、
申立人の子供たちを避難させる必要があるかどうかだけなのです。
他の子供達に対する事実上の影響の問題を司法判断に持ち込み、
厳しい要件を課したのは、民事訴訟の原則に違反するものであると考えます。
100ミリシーベルト以下での低線量被曝のリスクが証明されたとはされていないことや
文科省の20ミリシーベルトの判断を理由に子どもの健康のリスクを否定した内容は、
結局、行政の判断に追随しているだけであり、司法の役割を全く果たしていないというしかありません。
チェルノブイリでの避難基準との比較、ベラルーシやウクライナの子供たちの現状、
福島の明日は今のベラルーシやウクライナであること、
多くの子供達が被害を受ける危険があることを、裁判所はどう考えたのでしょうか。
科学的な証明のためには膨大なデータの収集が必要であり、そのためには長い時間がかかります。
児玉龍彦東大教授が言っておられるように、科学的に証明できてから対策をとっても遅いのです。
ことは子供たちの生命、健康の問題です。
予防原則が徹底されなければなりません。
我が国の政府は、国民に対し、年間20ミリシーベルトまでの被曝をさせる意思です。
ウクライナやベラルーシでは、年間5ミリシーベルトを超える地域は強制避難地域とされました。
それでも大変な健康被害が生じています。
我が国における子供たちの保護が、旧ソ連の各国よりもはるかに劣っていること、
そのことを我が国の司法すら安易に追認することに驚きを禁じえません。
司法の仕事は、苦しみの中で救済を求めている市民を救うことであって、
市民を苦しめる行政の行為にお墨付きを与えることではありません。
今回の裁判所の決定に対し、私たちは十分に検討の上、今後の道を探りたいと考えます。
この日の判決のこと、鮮明に覚えています。
「負け続け」と言われる原発裁判の中で画期的なことでした。
嬉しくてこの国の司法が変わるか、との期待を抱かせました。
この日は、「ストップ大間原発道南の会」の会議のひでした。
みんなと大喜びで、原発稼働差止に湧きました。
ちなみにこの日は私の誕生日でもあり、
嬉しいが重なった日でした。