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風のたより  その35 会津若松から帰ってきて

今回はびっちり1週間、会津若松に滞在して撮影をさせてもらった。

ここに身を置いて、空気を吸い、食べて、人と話し、言葉だけでなく色々なものを感じた。

原発事故は終わっていない。

というよりこれは始まりで、これから先ずっとこの問題と向き合っていくことになるんだとヒシヒシと感じた。

それは福島の人だけでなく私たちもだ。

 

こんなことを起こしてしまったのも人間だが、

私にとってこれから先の希望を感じさせてくれるのも人なんだなあと思った。

 

 

予定より早く帰れることになった。

9月16日の仙台からの船に乗り、17日北海道に帰ってきた。

機材を置き、新内ホールへ向かった。

空想の森映画祭の最終日。

のんびり屋の茂さんのライブから参加できた。

廊下で鷹栖町の音次郎さんと理香子さんに会う。

昨日から参加して、ゆっくりと楽しんだとのこと。

茂さんの歌は相変わらず面白くて、大いに笑いながら歌を楽しんだ。

 

のはら、はなちゃん、ザマーズ、ぴよさん、こおりやまさん、たまちゃんなどスタッフの面々。

ふみよさん、宮下さん、宇井さん、茂子さん、いんであんなど新得の面々。

そして新しい参加者やゲストの人たち。

 

みんなの顔を見ていて、今回も素晴らしい映画祭だったことがわかった。

 

毎回毎回、参加する人が違うので映画祭の雰囲気も違ってくるが、

毎回ひとつだけ共通することがある。

あたたかい気持ちになることだ。

だからみんながこの場で自分の気持ちを素直に表現できるのだと思う。

さよならパーティーでは、一人一人、一言みんなに話をする。

20代のはなちゃんやのはらが話をした時、かつての自分を思い出した。

私も20代後半から30代半ばまで、一年に一度のこの映画祭に自分の全てをかけていたなあと。

 

新内ホールという場の持つ力も大きいが、

この場を、この映画祭を必要としている人たちがいるんだなあと改めて感じた。

久しぶりに会った藤本さんはお腹がぽっこりと突き出ていた。

「私もだけど、藤本さんも太りましたねー」と言うと、

これには訳があるんだよ。ここ何年か旅暮らしが多くて、不規則な生活で自分で作って食べられないからなんだ。

そうなのです。

旅が多いと太るのです。

 

一方、いんであんはお腹がへっこんでいた。

何かダイエットしたの?

と聞くと、一か月間牧場で働いたら自然にやせたとのこと。

そういえば、体を使う仕事している人で太っている人はいないなあ。

[…]

撮影報告 その137 若松栄町教会にて

 

2012年9月13日。

朝、宿から歩いて車をとりに行く。

出かける前の輝美さんに会い、もう一度お礼を言って別れた。

宿に帰って事務仕事。

そして輝美さんから昨日いただいた本を読む。

とてもよかった。

センターで販売していたので、数冊買いに行こうと思った。

そして、やっぱり教会の中のステンドグラスやオルガンなど、三脚を立ててきちっと撮りたいなあと思い、

午後、教会に向かった。

 

輝美さんも謁也さんも出かけた後だった。

教会には見学の人が来ていた。

自由さんが対応していた。

 

私は本を買い、教会の中も撮らせてもらえることになった。

 

ステンドガラス、今も現役のオルガン、聖書などを撮影していると、自由さんがやってきて色々説明してくれた。

若松堺町教会創立は1894年。

あの野口英世も教会員だった。

その名簿(コピー)を見せてくれたりした。

本物は野口英世記念館にあるとのこと。

この教会も会津若松の観光スポットの一つなのだ。

 

 

そしてまた、一人で撮影していると、

「こんにちはー」

と女性の声。

愛さんとハルちゃんだった。

 

 

町で色々済ませ、裏のカトリック教会に行く途中、私の車を見つけて寄ってくれたのだ。

少し興奮気味に愛さんは話しだした。

 

山形県の米沢市は、米沢市ばんせい町の雇用促進住宅に空きがあった場合、

会津地方に自主避難して家賃を支払っている人を優先して住宅を提供しれくれるという。

しかも家賃無料、給食費無料、家電6セット、米支給など、ありがたい支援情報があり、

私の取材の後、愛さん・和也さんはその住宅を見にいってみたそうだ。

 

米沢市に電話で問い合わせた時、まず、大変ですね。と言ってくれ、こちらの電話番号を聞き、電話代がかかるからとかけ直してくれたそうだ。

そこで愛さんは涙が出そうになったという。

今まで福島県の行政からは何一つ支援もあたたかい言葉もなかった愛さんは、それはそれは嬉しそうにそのことを話してくれた。

 

なんかいい話を聞いて、私もとても嬉しくなった。

ただ、まだわからないけれど、もしも自分たちが会津若松を離れることになったら、

せっかく立ち上げた会を離れなければならないので、複雑な気持ちだと愛さんは言った。

会の仲間にこのことを話したら、「渡邊家がその方がいいと判断したことなら、私たちは喜んで送り出すよと言ってくれたんです。」

とウルウルしながら話してくれた。

 

そんなこんなで、教会でまた愛さんを撮影させてもらった。

 

そして自宅の台所で料理中の自由さんにお礼を言って教会を後にした。

 

[…]

撮影報告 その136 片岡輝美さん

輝美さんと二男の自由さん。

 

2012年9月12日。

若松栄町教会に着くと、夕焼けのきれいな空だった。 しばらくその空を撮影した。 若松栄町教会

 

教会の裏にある会津放射能情報センターの建物に入ると、輝美さんがハグで私を迎えてくれた。

去年の会津若松での撮影の時は、このセンターをインタビューの撮影場所として使わせていただくなど、

本当にお世話になった。

一年前、原発事故後のつらかった胸の内や現状を話してくれた輝美さん。

その話は私の心にずっと残っていた。

そして今、震災から1年半がたち、再び輝美さんにお話を伺った。

輝美さんは今も多忙を極めている。 全国のキリスト教の教会から、福島の話をして欲しいと依頼され、月に数回は各地で話をしに飛び回っている。 その他にも、9条の会の活動、福島原発告訴団の活動などにも力を注いている。

輝美さんは、昨日北海道から帰ってきたばかりだった。

明日はまた地方に出かけるという合間に時間をつくってくださった。

今の現状、思うことをいろいろお話してくださった中で私が印象に残ったことを書きます。

色んな地域で福島の話をした時、参加者の方から、 「福島のために何をしたらいいですか?」という質問がよくあるという。 以前は「福島のことを忘れないでください。」とか答えていたのだが、 今は「ここも福島も同じですよ。放射線量の多い少ないという違いだけで、どこも同じ被害を受けている。 だからいっしょにできることをやりましょう。」 と答えるようになったそうだ。 本当にその通りだと思った。

原発事故は距離の問題ではない。

そして、自分の住んでるところをもう少し広い範囲で見渡すと、必ずそれほど遠くない所に原発があるということに気がつく。 そう考えると、日本中の人は福島は他人事でない。 自分の問題である。

今回の震災の時、東北の海沿いの町で津波から多くの人が助かった町があった。

津波の警報が出た時、すぐに逃げることで、逃げようと思っていなかった人たちに対しても自分も逃げようと思わせ、 結果的には自分の命だけでなく、他の人の命も助けたことになった。

9月 13th, 2012 | Category: 原発, 新作撮影報告 New ! | Leave a comment

撮影報告 その135 大熊町の人たちに再び話を聞く

2012年9月11日。

今日もいい天気。

私が会津若松に来てから連日お天気で暑い。

震災からちょうど1年と半年。

会津若松の町から車で20分ほどのところにある東山温泉の「おやど東山」へ向かった。

積田さんの紹介で、去年ここで大熊町から避難してきている方々に会わせていただきお話を伺った。

 

今回も積田さんが去年話を聞かせていただいた方にまたお会いできる場をつくってくれた。

横川公治さん、大西義昭さん、長谷川勘一さんが来てくれた。

お三方とも元気そうだった。

横川さんと長谷川さんは農家だった。

大西さんは会社勤めだった。

積田さんといっしょに、お話をうかがった。

 

この宿に一時避難している人は全員仮設住宅や借り上げ住宅にそれぞれ移っていった。

みんなバラバラになっているが、時々この宿に遊びにきたりするそうだ。

おやど東山主催のパークゴルフ大会も去年から開催された。

大西さんが優勝し、そのトロフィーが飾ってあった。

 

開口一番長谷川さんが言った。

「あれからなーんも変わってない。ただ、仮設に移っただけで。」

といった。

町長は大熊に戻る方向で除染を進めていくという方針をとっている。

長谷川さんたちも今でもやはり大熊に戻りたいという。

自分たちに放射能の影響が出る頃にはもうこの世にいないだろうからと。

でも子供や孫は戻ることはできないだろう。

判断は若い人にまかせて自分たちは町の方針についていこうと思っていると。

それにしても、いまだに先がまったく見えていない状態でみんな精神的にも肉体的にも疲れ切っている。

みんな出てくるのはぐちばかりだという。

 

今までは広い敷地に家があり、近所の人たちと行き来して暮らしていた。

それが一転、狭い仮説や借り上げられた集合住宅。

知った人のいないところで、狭い敷地に狭い部屋。

とてもストレスがたまるという。

鍵なんてかけたことなかったから、いまだに鍵をかけのを忘れたりするそうだ。

 

横川さんは借り上げの集合住宅の4階に住んでいる。

エレベーターはない。

奥さんは膝が悪いので、ほとんど部屋から出ないそうだ。

 

1年半たって、地元の人と仲良くなることもあれば、

逆に「お金もらえていいね。」と言われ、つらい思いもするようになった。

 

大熊町で、作物にどのくらいの線量がでるかを調べるために、

放射線量の高いところで畑をつくっている。

その世話と管理を定期的に横川さんと長谷川さんが町の要請を受けてやっているそうだ。

会津若松から片道2時間、往復4時間かけてやりにいっている。

 

除染した畑と全く除染していない畑で同じ作物をつくっている。

白い防護服を着て線量計をつけて作業をするそうだ。

ものすごい暑さと汗。

2時間が限界だそうだ。

 

同じ福島県から自主的に避難してきた人、大熊町から町ごと強制的に避難してきた人、そして地元の人。

[…]

撮影報告 その134 バザーに向けて 

会の拠点。 ボーイスカウトが使っていた建物だったそうだ。

 

2012年9月10日。

福島県に県内自主避難の権利を求める会の活動資金を自分たちでねん出しようと、

手作りのものを作ってバザーで売ろうということになった。

最近、カトリック教会の人が、敷地内にある現在使わrていない建物を会に貸してくれることになり、

みんなで集まれる場所がようやくできた。

 

 

 

10:00。 みんなが集まってきた。

初対面なのでご挨拶と撮影の趣旨を簡単に説明。

昨日、愛さんは2,3人しか来ないかもしれないといっていたが、9人も集まった。

渡邊一家は和也さんが夜勤明けで帰ってきてからだったので少し遅れてやってきた。

 

何の気兼ねもなくしゃべることができる仲間と過ごす時間。

現実の厳しい問題も多いが、やはりそれだけでなく、おしゃべりに花が咲く。

 

 

会津若松で避難してきたのですと言うと、

「お金もらってるんでしょ。」

などと露骨に言われることもあるという。

現実は何の支援もないのに。

町ごと避難してきている大熊町の人は手厚い支援を受けているが、それといっしょにされるのだ。

かといって家のある福島市や郡山市に戻ったとしても、故郷を捨てて逃げたと後ろ指さされるような雰囲気が蔓延しているそうだ。

 

 

 

 

福島市、郡山市、本宮市などから自主避難してきている人たちで、

子供のこと、親のこと、親類のこと、職場のこと、みんなぞれぞれ事情を抱えている。

 

渡邊家のように、だんなさんもいっしょに避難してきている人は少ない。

しかも和也さんは夜勤の勤務が多いので昼間に動ける貴重な男。

会にとって、とても重要な存在なのだった。

会のメンバーのアイディアで、はぎれや使わない布でデッシュケースとシュシュをつくろうということになった。

さっそくメンバーのEさんが試作をつくってきていた。

 

布の手提げにかわいいマークが。 このキャラクターも会のメンバーが消しゴムでつくった。

 

みんなで手分けしてつくろうということに。

どんな装飾をつけるか、値段はいくらにするか、などなみんなで話す。

 

「こんなに集まったのは初めて。」

[…]