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撮影報告 その116 大間・山本家 四日目

2012年5月7日(月)

4:45 起床。

「起きてこなかったら起こしてあげようと思ってた。」と明美さん。

山本さんは支度をして、船のエンジンをかけに港へ行った。

 

私はキャメラを持ってまだ薄暗い外へ出た。

朝焼けがきれいだった。

三脚を立て、山本家越しに撮影。

今日は天気がよさそうだ。

 

山本さんが軽トラで港から戻ってきた。

そのまま軽トラの脇で一服していた。

それをロングで撮って、私は一足先に港へ向かった。

下出浜漁港。

港で山本さんが来るのを待ち構えた。

そして船に乗り込み、竿を装着していた。

 

「じゃ、行ってくるわ。」と山本さん。

「気を付けて。行ってらっしゃい!」

グーンと左に旋回して宝昭丸は港を出て行った。

大間崎の弁天島

私は大間崎へ向かった。

山本さんの家からほんとに近いところにあるのだとこの時初めて知った。

ちょうど朝日が昇ってくるところだった。

本州最北端の御来光を撮影。

海原の光の道がとてもきれいだった。

その上にはたくさんの漁船が浮かんでいた。

左が建設中の大間原発。

少しアップ。

天気もいいので、大間原発の方へ向かった。

オコッペの丘に行き、原発を撮影。

建屋。

大間町のほとんどの人はこの原発から3キロ以内に暮らしている。

そして大間では電力は足りている。

ここから送電線で遠い東京へ送る。

何か事故があって逃げるといっても、細くて狭い道路が一本しかない。

私はしばらく原発と朝の海を眺めていた。

 

山本さんの家に帰り、朝食をいただく。

 

10:00。奥本さんの家へ向かう。

去年の3月11日から1年以上が過ぎた。

[…]

撮影報告 その115 大間・山本家 三日目

2012年5月6日(日)。

今日も曇り。

私は昨日と同じように起きてからすぐにキャメラを持って、山本さん夫婦といっしょに過ごしながら撮影。

 

お茶を飲みながら、朱美さんと話をする。

山本家は、大間で魚の獲れる量が減ってくる初夏から冬まで、岩手県の久慈に拠点を移して魚を獲るという生活を続けている。

「大間で魚が獲れたら行かなくてもいいんだけど。」と朱美さん。

 

漁の日、山本さんは朝4時過ぎから支度をはじめ、5時には港を出る。

帰って来るのは夕方6時か7時くらいだ。

18歳で山本さんと結婚し、以来ずっと朱美さんはご飯をつくり、掃除をし、子供を育て、家を守ってきた。

「子どもたちが大きくなったと思ったら、息つく暇もなく今度は孫の世話だもの。」と朱美さんは笑う。

 

船にいっしょに乗らせてもらった長男の卓也さんは、家族3人で名古屋に行き、元気に働いているそうだ。

 

「それにしても、山本家はみんなよく話をしますね。」と私が言うと、

「そう。うちはみんな何でもよくしゃべるの。」と朱美さんは言った。

 

庭に出てみた。

今日もくもり空で肌寒い感じだ。

家の前のこいのぼりが勢いよく泳いでいる。

大間は風が強い日が多い。

漁で使う糸に山本さんがこいのぼりをつけたそうだ。

 

少し花が咲いていた。

家の脇に小さな畑があり、ネギやキャベツが植えられていた。

 

私が撮影していると朱美さんも庭に出てきた。

今年はカラスにキャベツをやられたそうだ。

「この倍くらいの大きさがあればもっと野菜がつくれるのだけどね。」と畑からネギをとった。

 

昼ごはんは暖かいそうめん。

畑のネギが入っていた。

そして自家製の梅干しが何ともおいしかった。

これは、山本さんたちが半年過ごす岩手県・久慈の人から教えてもらった方法でつくった梅干しとのこと。

絶品だ。

 

午後、ユキさんと子どもたちがやってきた。

山本さんは小屋の中でトウキくんのパンクした自転車の修理にかかった。

ユノちゃんはその周りでほうきと塵取りを持って一生懸命お掃除をしていた。

 

パンクを修理してもらったトウキくんは、元気よく自転車をこいで遊びに行った。

その後ろ姿を見つめる山本さんの目が印象的だった。

 

そして私は家の中に入って、ユキさんのインタビューをさせてもらう。

大間原発のことを撮影するようになってから、私は大間の漁師の人がどんな暮らしをしていて、原発についてどう思っているのかを知りたくなった。

そして特に若い人が原発のことをどのように考えているのだろうと気になっていた。

 

ユキさんも10代で同級生のカズキさんと結婚し、3人のお母さん。

看護士として大間の町の病院で働いている。

チャキチャキした肝っ玉母さんという感じだ。

 

ユキさんは今回の福島第一原発の事故を目の当たりにして、原発の問題を初めて自分のこととして捉えるようになったという。

子育て中の今、放射能のことがとても気になるとユキさんは言った。

[…]

撮影報告 その114 大間・山本家 二日目

2012年5月5日(土)。

今日は北海道の泊原発が止まり、日本の原発が全て止まった記念すべき日。

ゆっくり眠らせていただいた。

 

私が使わせてもらった部屋に感謝状があった。

山本さんが仲間の漁師を助けた時のものだ。

あと5分遅かったらその人の命は危なかったそうだ。

 

 

朝起きて、キャメラを持って廊下をへだてた居間へ。

山本さん、朱美さんはもうとっくに起きていた。

今日も曇っていて肌寒いような天気だ。

 

朱美さんは神棚に水をあげたり、パンパンと拝んだり、朝のするべきことを着々とやっていた。

山本さんは今日も漁は休みでゆっくりしていた。

私が使わせてもらっている部屋にも神棚があり、それは漁の神様を祭っている。

朱美さんは2か所の神棚にお水と朝のご挨拶。

 

朝食後、居間で山本夫婦とおしゃべりをしながら撮影。

午前中、奥本さんが山で採ってきたわさびを持ってやってきた。

そして晩に奥本さんと町に飲みにいく約束をしていたのでその話をしていたら、

山本さんが、「ウチで飲めばいいべ。」と言ってくれたので、今晩は山本家で飲むことになった。

山本さんが飲めないので、飲んべの私と奥本さんは町の居酒屋へ行って飲むかと話していたのだ。

「晩に奥本家のわさびのおひたしも持ってくるから。」と言って奥本さんは帰っていった。

 

朱美さんは晩のおかずづくりを始めた。

見慣れないものだったので聞いてみると、マグロの胃袋とのこと。

朱美さんは、マグロの身よりも胃袋の方が好きだという。

どんな味なのか晩が楽しみだ。

それから、奥本さんが採ってきたわさびをおひたしに。

 

山本さんと朱美さんはなんでもよく話をする。

「今まで食べた「(朱美さんの料理)中で、茶碗蒸しが99点だった。あれはいい味だったなあ。卵がもう少し柔らかければ100点だったなあ。」と山本さん。

「ほんの少し早く鍋から出していれば、最高だったんだけどねえ。」と悔しそうな朱美さん。

「でも味はなんとも言えずよかったなあ。」と山本さん。

 

こうやって漁の休みの日は過ごしているんだろうなあ。

それにしても山本さんは実に穏やかに話をする。

山本さんと話していると私も穏やかな気持ちになる。

「いやー、昔は違ったんだ。母ちゃんに聞いたらいい。」と山本さんは言った。

 

「今も頑固だけど、昔はもっとすごかったー。」と朱美さん。

朱美さんの明るさと優しさで山本さんは癒されているのだなあと感じた。

そして朱美さんは山本さんの家族を守る強い意志と優しさに惚れているんだろうなあ。

ポッキー

ポッキーは時々外に出たいと言う。

朱美さんが窓を開けると、ポッキーは30センチほどの段差をエイヤと跳ねて庭へ出る。

そしておしっこをして、しばらく外の空気を吸って満足すると、今度は自分でドアを開けて部屋に戻ってくる。

そして朱美さんがウエットティッシュで足とオチンチンをふいてあげる。

ポッキーはブルブルっと頭を振って、ゆっくり部屋を一周してから、ストーブの脇の自分の寝床にうず

くまる。

[…]

撮影報告 その113 大間・山本家 初日

2012年5月4日(金)。

昨日から風が強く、大間行のフェリーが予定通り出航するか気をもんでいた。

事実、昨日の午後の便は欠航だった。

この天候と風で欠航になると思うからもう一日函館にいたらいいのに、と野村さんはしきりに言う。

船着き場に電話して確認すると予定通り出航するとのこと。

私は野村家を後にしてフェリー乗り場へ向かった。

 

9:30。船は無事函館港を出港。

昨日の午後の便が欠航になったため、奥本さんもこの船に乗っていた。

今回、奥本さんの話も撮影させてもらうことになっている。

昨日のことなどひとしきり話してから、私は婦人室で爆睡。

 

11:30。大間港に着く。

山本さんの家に直行した。

ゴールデンウィークは漁も休みとのことで山本さんも家にいた。

妻の朱美さん、長女のシノブさん、山本家のみなさんと再会。

初めてお会いしたのがは去年の11月末。

一坪君と漁の撮影をした時だ。

あれから半年になる。

 

今日一日は撮影をしないで、山本家のみんなと色んな話をしよう、そして明日から帰る日までの4日間、しっかり撮影しようと私は考えていた。

 

早速居間でお茶をいただきながら話をした。

その内お昼になり、朱美さんがオムレツをつくってくれた。

明美さんはホント、料理が上手だ。

山本家滞在中、朝昼晩と毎日おいしい食事をいただいた。

 

山本家はいつも整理整頓されている。

モノはあるべき場所にしまわれているので、居間はすっきりしてスペースが広い。

これは朱美さんのきれい好きによるところが大きい。

 

玄関を入って左の二間続きの部屋を使わせてもらった。

機材を置く部屋と寝る部屋に分けられてすこぶるいい。

 

そうこうしているうちに、山本さんの次女・ユキさん一家がやってきて一気ににぎやかになった。

 

ユキさんはハルトクン、トウキクン、ユノチャン、三人のお母さんだ。

上の二人の男の子は小学生、下の女の子は保育所に行っている。

カズキさんとユキさん

ダンナさんのカズキさんは、船の乗りこをしているが、明日から2週間の出稼ぎに出るそうだ。

乗りことは、自分の船を持っていないので人の船に乗って漁をする漁師のこと。

ユキさんは大間町に一つだけある病院で看護師をしている。

子どもたちは、それぞれ学校や保育所が終わるとほぼ毎日山本家にやってくる。

そしてユキさんも仕事が終わるとやってきて、夕ご飯をみんなでいっしょに食べ、お風呂に入ってから近所の自宅へ帰るという。

 

シノブさんが子どもたちの面倒をよくみているので、私は産みの母、シノは育ての母なんだとユキさんは言った。

 

5月 26th, 2012 | Category: 原発, 新作撮影報告 New ! | One comment

風のたより その16 与那国・マナミさん

与那国にて。2010年。

 

与那国島の「民宿おもろ」のおかみ・マナミさんから電話が来た。

2010年の「空想の森」トロピカルツアーの時に大変お世話になった。

与那国で実現できたのは彼女のおかげでもあった。

彼女は今、与那国についての本を執筆中。

年内には出版するとのこと。

島に対する想いは人一倍強い。

何でも、その本に私も登場するらしく、そのことについての電話だった。

ひとしきり彼女と話し、私は与那国での日々、空気を思い返していた。

 

 

マナミさんのブログで、最近感動した文章があったので紹介します。

以下マナミさんのブログより。

 

平和へ想いを込めて・・・・

沖縄復帰40周年企画 平和行進の成功おめでとうございます。

そして、参加者の皆様、ありがとうございます。

復帰前の沖縄や与那国を私は記憶していません。

まだ、3歳のころです。

私は、平和な与那国島で育ちました。

幼少の頃、もっともっと自然がいっぱいで夜になると家の中の灯りに誘われて世界最大の蛾、

ヨナグニサンが舞い飛んできました。

田んぼや畑のそばの草藪には、ヨナグニサンの繭の抜け殻がたくさんあって、

それを取ってきて小さいファスナーをつけたヨナグニサンの小銭入れがあったことを記憶しています。

観光客のなかにも昔、与那国の空港売店にはヨナグニサンの小銭入れが

お土産物としてたくさんあったという思い出を話してくれた方がいました。

戦争を知らない私に、父がよく話してくれたことがあります。

地上戦がおこなわれた沖縄本島は焼け野原になりすべてを失い食料が無くなってしまった。

すると、この与那国までアメリカの兵隊さんは食料を取りに来たそうです。

子どもだった父が可愛がっていたヤギを泣き叫び抵抗する父から奪っていったそうです。

沖縄に生まれ育った私は、見たこと聞いたこと、自分の経験をとおして、沖縄の心で平和を訴えていくことができます。

私は、この島を訪れる旅人の旅のお手伝いをする宿泊業をしています。

だからこそ、私は、知っています。

人の何倍も感じています。

多くの方々が、この島の何に恋焦がれ、愛して夢を見、何を求めてこの島にやって来るのかを。

それは、豊かな自然です。独特の島の文化、芸能です。

先祖を敬う人々の優しい心にふれ、平和を感じられる島だからです。

そして、私はこの島の良さを日々再確認し、再認識しています。

お客様の中に、この与那国へ沖縄が復帰する前からパスポートを持って通っているお客様がいます。

ずーっと、今もなおそのお客様は年に何十回と島を訪れています。

島特有の植物や生物に心惹かれ興味を持ち島の大自然に癒されています。

島を訪れるお客様に島のことを訊ねられます。

島内に対立する空気を見せてしまう賛成、反対の両方の多数の横断幕。

私は、島を紹介し宣伝する立場としてとても苦悩し、心を痛めています。

この現状をどのように伝えますか?

平和でない島にお客様は癒されますか?

今回、私は、純粋に平和を願う者として、この場で声を挙げます。

与那国の平和とは、与那国の自立とは、何でしょうか?

人々の自立とは何でしょうか?

各々がしっかりとした意見を持ち、声を挙げ主張し、そして互いに人権を尊重しあい

自分の足で立ち自活していくことが真の自立ではないでしょうか?

[…]